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19「院庁下文」再発見 ~風呂敷から無造作に 修復して重文に指定

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 県立歴史館準備時代の忘れられない出来事が、鳥羽上皇が平安時代に出した「院庁下文」(いんのちょうくだしぶみ)原本の再発見です。
 1920年に東大の史料編纂所で史料採録の記録が残り、私が県史編纂で荘園の遺構調査をしているころは、諏訪市の吉田れんさん所蔵でした。

 85年ころ、大阪市立大の河音能平教授から、「原本を見たいので、所在を教えてほしい」と連絡がありました。調べてみると、れんさんは亡くなっていて、吉田家に両養子に入った能民(よしたみ)さんが富山県にいることが分かりました。
 能民さんは「聞いたことがない」とのことでした。ただ、「相続した品物を預けた方が高齢になり、それを返したいと、近く富山に来る。こちらにいらっしゃればお見せする」という話になりました。

―丸めてぼろぼろで―

 お目にかかったのは88年のことです。貴重品や大事な軸物類の中に、それはありません。能民さんが「ほかには紙くず類の風呂敷包みだけ」と言われた時には、「もうだめかもしれない」と、不安な気持ちが込み上げました。
 それでも―と、気持ちを奮い立たせて風呂敷を開けると、無造作に包まれた古文書が出てきたのです。丸めてありぼろぼろ、誰も価値のあるものだとは分かりませんでした。私は全身の力が抜け、ホテルのじゅうたんに座り込んでしまいました。

 見つかったのは、鳥羽上皇の家政機関である院庁が、最勝寺領信濃国小川荘預所(あずかりどころ)の権利を保証した文書です。
 約900年前の1145(天養2)年、平維綱(これつな)は、鳥羽天皇が建てた御願寺の最勝寺領小川荘の下司(げす=現地の荘官)、清原家兼の財産を横領して、自分が下司職(げすしき)に収まろうとしました。小川荘の預所の僧・増證(ぞうちょう)は、この非法を京都の鳥羽院庁に訴えます。
 これに対して院庁は増證勝訴の判決文を出したのです。鳥羽院の別当(政所の長官)が直筆で花押を書いています。

 文書からは、平安時代の小川村は天皇御願寺の荘園にするほどの富があったことが分かります。当時の長野市は氾濫原ばかりで、人はほとんど住んでいません。中山間地の小川村は水田も畑もでき、荘園年貢の麻布がとれ、富の生産力が高かったのです。

―県立歴史館所蔵に―

 小川村が購入を希望しましたが、能民さんは「ご先祖のものだから」とお断りになりました。
 その後、能民さんは勤めを終えて、92年に諏訪に戻ってきて亡くなられました。相続者がなく、保存上のこともあって県に寄贈の申し出があり、県立歴史館の所蔵となりました。

 900年を経た文書は傷みがひどく、保存には修復が必要でした。文化庁の指導の下、京都の表具専門業者に依頼しました。1000万円を超す価値の古文書修理に300万円もかかりましたが、精巧な複製品も作り、県立歴史館の展示資料として活用しました。

 文書の宛先である地方の田舎に残った、平安時代の天皇家発給文書としては類例がなく、現存する院庁下文の正文としては東国唯一として98年、国の重要文化財に指定されました。うれしい思い出の一こまとなりました。

(聞き書き・中村英美)
(2017年7月1日掲載)

写真=修復を終えた「院庁下文」原文



 
井原今朝男さん