
県立歴史館が開館した翌年の1995年10月、韓国国史編纂委員会が主催する第21回韓国史国際学術会議に招かれたことに併せて、倭城調査に参加するために韓国を訪ねました。
韓国では、東大史料編纂所の村井章介教授、共立女子大学の北島万次教授と私の3人で、ソウル大学の文書館「奎章閣」の韓永愚(ハンヨンウ)館長を訪ねたほか、湖厳美術館や国立海洋博物館などを回りました。
ソウルの隣にある果川市(クァチョンシ)では、国史編纂委員長の李元淳(イウォンス)さんが交流会を開いてくれました。宮廷料理でもてなしを受けました。
それは、とにかく豪勢で、中でも焼酎「真路(ジンロ)」が驚くほどおいしくて、感激したのを覚えています。普州(チンジュ)での鶏肉にもち米、高麗人参、松の実などを入れて煮込んだ薬膳スープのサムゲタンも絶品でした。
沈没交易船の展示
河(ハフェー)の民俗村は強烈な印象が残っています。約450年前の秀吉時代の両班(ヤンバン)(貴族)の家と百姓の村が、当時のまま博物館になっていました。
両班の柳生龍(1542~1607年)は、秀吉の侵略軍と戦った李氏朝鮮の首相でした。その人の生家がそのまま、書物や衣類などと共に展示されていたのです。日本では秀吉の生家も聚楽第も大坂城もありません。この時代の村ごと全部が博物館になってしまうなど考えられないことで、これには本当にびっくりしました。
前年にオープンしたばかりの国立海洋博物館では、1323年、日本の鎌倉時代に、朝鮮半島で沈没した交易船を引き上げて、そのままの形で展示していました。積んでいたのは京都の東福寺に送り届ける荷物でした。県立歴史館で歴史景観復元展示という最先端の展示技術を採用しましたが、発掘調査で出てきた実物の沈没船の展示は、全くスケールを異にしていました。
非常に大きかった韓国での成果を「韓国における史料編纂・保存・公開・展示」としてまとめ、「県立歴史館研究紀要」で報告しました。
倭城調査の倭城とは、秀吉の朝鮮出兵で日本軍が現地に築いた城のことです。戦国時代、日本国内の城は山に土で造っていましたが、朝鮮侵略のための倭城は海岸べりに造らなければならず、全部石で造り、石垣の城ができました。近世徳川時代はみんな石垣です。倭城から、日本の城が石垣中心になったのです。
上杉景勝の熊川倭城
訪問当時は、2002年のサッカーワールド杯の日韓共催や韓流ドラマ「冬のソナタ」ブームの前でした。その年の8月15日、村山富市首相が植民地支配謝罪談話を出した時でした。それまでずっと倭城は放置されていましたが、この調査をきっかけに、倭城研究会などによって、近世城郭の研究が急激に進むこととなりました。
釜山、順天(スンチョン)、熊川(ウンチョン)の倭城調査をした中で、私が目を見張ったのは熊川倭城を上杉景勝が築城した事実でした。景勝は秀吉の名代として朝鮮に渡り、熊川倭城を築いて本拠地とします。その後、小西行長がここを拠点に対朝鮮交渉に乗り出していったのです。
信濃島津氏の先祖が朝鮮出兵をして持ち帰った漆皮箱(しっぴばこ)が子孫に伝わり、子どもがおもちゃにしていたのを見たことがありました。韓国でこれと全く同じものが国宝になっていて驚きました。
(聞き書き・中村英美)
(2017年7月8日掲載)
奎章閣で、韓館長、北島教授、村井教授と私(右から)