
漫画とアニメは、日本のサブカルチャーの代表格になった。その大きな源流を見ることができるのが、千曲市稲荷山にある「ふる里漫画館」1階の近藤日出造記念館だ。
近藤日出造(本名秀蔵)は、政治風刺漫画の第一人者として、戦前から昭和50年代まで活躍。多くの漫画家を育てた。「漫画で政治を大衆に近づけた功績」で1975(昭和50)年に菊池寛賞を受賞。顔の角張った風貌が政治漫談のテレビ番組司会で人気になった。
稲荷山はかつて商都と呼ばれ、その面影が色濃く残り、ふるさと漫画館は町の裏通りにある。白壁の蔵造りで、一世を風靡した近藤のほぼ全作品を堪能できる。
吉田茂氏から福田赳夫氏まで首相を一覧でき、懐かしい。風刺のセンスは今日の政治批判に通じており、色あせていないことに驚かされた。
近藤は1908(明治41)年、この町の洋品店の6人兄弟の次男に生まれ、稲荷山尋常高等小学校に入学。学業は各科平均94点と秀でていたといい、卒業後上京した。いったん帰郷後、再び上京して、当時漫画界のトップ岡本一平(岡本かの子の夫)に入門した。
独立後は、一こま漫画や挿絵、カット、イラストからポスターの商業デザインまで、手を広げ、信州人らしい勤勉さを発揮した。

明治時代に入ってきた欧米のポンチ絵(風刺・滑稽漫画)ジャンルのリーダー格だった近藤は、有望な若手を束ねて漫画集団を組織して、新聞・雑誌業界の一画を占めるようになった。仲間には「フクちゃん」の横山隆一、杉浦幸雄、矢崎茂、西川辰美らの新鋭各氏が並び、昭和モダニズムを旗印にした。
ちなみに近藤夫人は横山さんの妹で、2人は義兄弟。作品同様、温厚な横山さんに対し、近藤は「アナーキーなニヒリスト」と評された。興味は森羅万象に及び、鋭い批評家ぶりが買われた。読売新聞に40年余勤務、論説委員室に専用机を持った。1976(昭和51)年に倒れ、79年に死去した。政治漫画史を語れば、朝日新聞の清水崑氏に並ぶ存在だろう。
近藤の故郷、稲荷山は、幕末から昭和初期まで養蚕、繭集荷、綿布生産で栄え、「善光寺町をしのぐ」ともいわれた。信越線が千曲川の対岸を通り、旧国鉄篠ノ井線の駅が町外れにできたことが、衰退の遠因と言われる。養蚕、生糸全盛時代のクラシックな蔵の街が残った次第だ。

「小江戸」として観光客らに人気の街並み、埼玉県川越市にも似ている風景だ。蔵が並ぶ稲荷山の裏通りを散策すると、近藤が育ったころの商都のさざめきが聞こえてくるようだ。
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蔵造り風の「ふる里漫画館」(千曲市稲荷山)
近藤日出造と自画像