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21 朝鮮出兵研究 ~景勝の参戦を史実に葛山衆の活躍を解明

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 韓国訪問翌年の1996年、歴史教育者協議会から「秀吉が朝鮮に出兵したことは知っていても、具体的なことは分からないので倭城の現状を教えてほしい」と頼まれました。同協議会の機関誌「歴史地理教育」7月号に、論文「韓国の倭城を訪ねて―日本から世界から」とグラビアで、「韓国の倭城」を全国の小中高校歴史地理教師の教材研究として紹介しました。

 倭城調査がきっかけとなり、上杉景勝が秀吉の名代として朝鮮に渡り、熊川(ウンチョン)倭城を築いたことや、景勝がこの時に朝鮮半島に連れていったのが、戸隠と飯綱地区に住んでいた「葛山衆」であったことも分かりました。

修験者の知識役立つ

 葛山衆は、戸隠と飯縄信仰の修験者たちでした。経も読めば、山ごもりや祈祷もする。星を見て方角も分かるし、天気予報もできました。石や岩の硬さや、それに夏はひびを入れて、冬は水をかけて凍らせ割るといった鉱山技術に、薬草の判別など、たくさんの知識を持っていました。

 今の長野市上ケ屋近くにあった立屋(たてや)の地侍で修験者の立屋喜兵衛を中心に、葛山衆は船に麻布、米、鉄砲、槍などの軍事物資を積んで、直江津から佐賀県の名護屋城を経て熊川まで運びました。山伏や修験道の知識が大いに役立ったのです。

 ちょうど96年頃から戸隠神社による神社史の編纂が始まりました。久山家史料に、1594(文禄3)年の戸隠社頭建立供養文が伝わっていました。この年は、文禄2年に上杉景勝が朝鮮に渡って帰国した翌年に当たります。

 供養文には、顕光寺(戸隠神社)の別当賢栄が、景勝が朝鮮から無事帰国した祈祷のお礼として戸隠神社を再興したとありましたが、長い間、この供養文は創作話と思われていました。東国大名の景勝が秀吉の朝鮮侵略に参戦していたなどということは、明らかになっていなかったからです。

 しかし、上杉家文書や県外史料などから葛山衆や中野の高梨頼親など信濃侍が多数、朝鮮出兵に参加したことが史実になりました。1997年5月刊行の戸隠神社編纂「戸隠信仰の歴史」に「顕光寺と修験道の発達」と題して発表すると、大きな話題になりました。
 一方、朝鮮出兵で莫大な費用がかかった秀吉は、佐渡から東北地方にかけての日本海沿岸諸国で灰吹き法による銀山開発を進めました。

先端科学の技術官

 この時に、修験者として、岩に含まれた鉛を見分けられた立屋喜兵衛が金山(かなやま)奉行に任ぜられます。銀山開発では、金や銀を含む鉛を灰吹き法という技術で銀と亜鉛と鉛に分けるのです。銀は売り、鉛は鉄砲玉にしました。上杉家の家老直江兼続が組織した鉄砲隊には葛山衆や須坂の八町氏、中野の高梨氏や木島氏らが参加していました。

 戸隠・飯縄信仰の修験者が葛山衆となり、上杉景勝・秀吉の朝鮮侵略において、山岳信仰と天文地理学の知識を活用して交通、情報、廻船業や鉱山開発、鉄砲技術など、戦国織豊期の先端科学の技術官僚として、日本海沿岸地帯で全国的な活躍をした史実を初めて解明できました。

 全国的に興味関心が高いということで99年に専門書「中世のいくさ・祭り・外国との交わり」として東京で出版、刊行されました。
(聞き書き・中村英美)
(2017年7月15日掲載)

写真=調査で訪れた韓国の順天倭城
 
井原今朝男さん