
長野県立歴史館で仕事をしていた私の元に1997年8月、国立歴史民俗博物館(歴博=千葉県佐倉市)から教授人事応募の話があり、それまでの研究業績目録を提出しました。研究業績目録というのは、学会で認知された論文の目録のことで、これを提出すると、事前に大学の方で教授に相当するかを審査してくれるのです。
すると、秋には歴博の故佐原真館長から県教委に「割愛申請」が出てきました。割愛というのは、公務員の地方、国家、特別の枠を超えて一本釣りで条件の良い方へ、退職しないまま勤続年数が続くように移すことを指します。その権限は、館長と教育長に委任されていて、結局翌年2月に両方から許可がおりて、公立学校職員から国の文部教官へと転身することとなりました。
学界の最高研究機関
大学の共同利用機関としての歴博でしたが、当時の私にはそのことが分からず、大学と同じとばかり思っていました。それは80年代の大学院改革で生まれた学界の最高研究機関であり、ここの教授は国立大学教授の中から優秀者を登用する人事慣行でした。
なぜ私に声が掛かったのかというと、中世の原本史料や高額展示資料の目利きができる即戦力の研究者を必要としたから―と聞かされました。入所した後、佐原館長が、歴博の日本史研究専攻を総合研究大学院大学に設置するため、博士号を持っていて大学設置審議会の審査に通る研究者であるという条件がそろったことで、割愛になったのだと話してくれました。
98年に国立大の文部教官になって驚いたのは、歴史研究部長から「教授は管理職なので、最初の仕事は部下の助教授や助手に博士号をとらせること」と言明されたことです。さらに、関東財務局の文部教官専用宿舎への現地赴任が原則ということで、家族を長野においたまま、単身赴任生活を強いられることとなりました。
最初の講義は8月に全国の国立・私立大学院生に向けた専門講義「大学院セミナー」でした。貴重史料の原本に基づく専門知識や、人文科学の論証の方法である帰納法・(演)(えん)(繹)(えき)法といった研究手法などを指導しました。
総研大教授を併任
11月には全国の歴史民俗資料館等専門職員の研修会で、平安院政期の国政複合文書から、それを誰が書いて決裁まで至ったのか、文書の作成過程を読み取る講義をしました。生の文章に当たり、内容や記された墨の色などから、それが写しなのか、例えば文書や記録の作成をしていた右筆(ゆうひつ)が書いたのかなど分析するのです。
これらの講義を通じて、県史編纂や県立歴史館の準備過程で身につけた学識や分析力、目利きなどにより、学者博士の世界でも通用することを実感し、自信になりました。
翌99年4月から総合研究大学院大学に開設された日本歴史専攻の教授職を併任しました。当時歴博の教員は50数人。設置審に合格したのは約30人でした。
総研大で受け持つ学生は1人か2人なので、講義はなし、専門分野の研究業務のみという優遇された研究条件でスタートを切りました。そこであらためて、大学共同利用機関が一般の大学とはいかに違うのかを知らされました。
(聞き書き・中村英美)
歴博大学院セミナーの参加者と(前列右から5番目が私)
=1998年8月