
大学の共同利用機関である国立歴史民俗博物館(歴博)の本務として、2000年に大学の先生たちを動員して共同研究のプロジェクトを立ち上げました。当時、歴博所蔵の中世仏教関係史料が、未調査で公開されていなかったので、「中世寺院の姿とくらし」という展示プロジェクト委員会を発足させて、研究代表を務めました。
テーマは「中世寺院の機能と役割の総合的研究」とし、2つの目的を設定しました。第1に、館蔵仏教史料の調査研究を行い、未公開の古文書を展示公開すること。第2に、中世仏教史研究の動向を集約して、今までの宗派史や宗祖の仏教思想史とは違った「中世寺院」の社会的役割と機能について、多面的な研究の到達点を集約して企画展示を実施することとしました。
湯屋の歴史が話題
それまでの仏教史研究は、ほとんどが宗派史や宗祖思想史、教学史が中心でした。鎌倉新仏教でいえば、法然、親鸞、日蓮、道元、栄西という著名な教祖の思想史でした。しかし、一般の名もない寺院にも僧侶がいて、農民や民衆に向けて宗教活動を展開していました。民間の布教活動が庶民生活に与えた影響や寺院の社会的役割を解明するための寺院史研究が必要と考えたのです。
全国の大学で仏教史分野に関わる研究者の中から、注目されてこなかった仏教と生活史・社会史の関係を研究している人たちに参加を依頼しました。愛知県立大、愛知学院大、日本女子大、京都大、東京大、上越教育大など、そうそうたる顔ぶれが集まり、02年までの3年間、共同研究会を開催しました。
この中で大きな話題になったのが、風呂の起源となる「湯屋」の歴史でした。
風呂は平安鎌倉時代に寺院の僧侶が身を清めるために作ったのが最初です。歴博で未整理になっていた醍醐寺史料の中に、永正18(1521)年の湯屋の指図(さしず=図面)が残っていました。平安時代の湯屋が発掘調査で出土しており、建築史の先生にお願いして、指図に基づいて15分の1の縮尺で、復元してもらいました。
当時の風呂は、今のように身体をつからず、おけで湯をかぶるスタイルや、湯気を送って汗をかき、水をかぶる構造になっていました。医僧による湯施行で、皮膚病患者などを治療する場所になっていきます。一遍聖絵に描かれた寺院の門前にいた多くの病人は、湯屋に集まった人々だったのです。
企画展に3万人
02年秋に開いた企画展示「中世寺院の姿とくらし」には約3万人もの入館者があり、展示図録は完売、再版をかけてなお売り切れるほどでした。学会での反響も大きく、宗祖が主人公でない民衆仏教史・地方寺院史の仏教史の歴史像が新鮮だと評価されました。
京都や奈良、中央の権門寺社の歴史中心の中世寺院史研究から、全国の地方自治体誌の(編)(へん)(纂)(さん)で出てきた地方寺院の聖教類史料を使った文学、歴史、宗教史、美術史の総合的な調査、研究が発展。「儀礼テクスト」という新しい研究分野を開いた出発点としても評価されました。
県史編纂時代から中世地方寺院調査で訪れた全国の地方寺院は182カ所に上っていました。その成果が生きた展示となりました。
(聞き書き・中村英美)
(2017年8月5日掲載)
写真=「中世寺院の社会的役割」などについて考えた歴博フォーラム