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25 災害・開発の歴史研究 ~善光寺平中心に検討 越後平氏の開発実証

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 後に国立歴史民俗博物館(歴博)の館長となった平川南さんが代表を務める「日本歴史における災害と開発」をテーマにした歴博の共同研究が、1995年から2002年にかけて行われました。16大学3研究所の研究者によって実施され、私も構成メンバーの1人として参加しました。

 日本一の大河である信濃川流域での災害と開発の歴史研究で、初めての試みでした。私は、善光寺平を中心とした災害と開発の問題を、税制史の視点から検討しました。

 調べてみると、888年の「仁和の大洪水」で信濃の口分田の多くが流失し、荒廃公田や荒地になっていても、元の所有者の本主権(権利)が残っている例が多数ありました。

鐘鋳川の条里水田
 院政期になると、そういう土地に「荒野に立てる」という札を立て、新しい人が開発を申請すると、政府は「荒野所当や開発所当という税金だけで、それ以外の納税を3年間免除する」という特例措置を発令するようになりました。南北朝期から戦国時代には、4年から10年間に延長して開発を奨励したことを指摘しました。

 善光寺平で見ると、鐘鋳川が通っているところに条里水田がありました。堀切沢や宇木沢などの土砂災害で条里の最末端の田んぼには水がいかなくなり、荒れ地になってしまいます。これを再開発するため、「荒野に立てる」の札を立て、三条堰(六か郷用水)が引かれました。

 流域の西和田と東和田、西尾張部、北堀、南堀にも居館趾(武士の屋敷跡)が残り、三条堰の開発を武士が行ったのですが、それが誰だったのかは分かっていませんでした。

 宮内庁が所蔵する鎌倉時代の日記文学「とわずかたり」に、後深草院の女房二条が和田郷高岡の石見入道宅から善光寺に参詣したという記録が出てきました。当時は、文学作品で史実ではないと言われていました。

 ところが、山形大学の中条家文書の中に「桓武平氏諸流系図」があり、これで「とわずかたり」の石見入道の一族が越後平氏であることが判明しました。古記録を調べると、越後平氏と石見一族を結び付ける史実が出てきました。

日観想を表す中道
 後高倉院の妻の北白川院と娘の安嘉門院(あんかもんいん)の乳母の夫が、八条院領信濃東条荘狩田郷(小布施)の領主で平繁雅といい、越後平氏の一門でした。孫の繁氏が石見守であり、鎌倉御家人であったことが実証できたのです。

 善光寺の奉行人だった和田石見入道仏阿と三河入道一門が、和田郷と長池郷の地頭でした。善光寺平で、越後平氏の三条堰による非条里地帯の開発が実証されました。

 現在の東和田運動公園に高岡の石見入道屋敷があり、善光寺に向かってまっすぐに延びる中道が今も通っています。お彼岸には、この道の延長線上にある経堂の宝珠の上に、太陽が沈むように造られています。

 善光寺参詣には、鎌倉時代から東の村山と布野の渡しから西の極楽浄土に向かって参詣する日観想という作法がありました。善光寺平の再開発地が、天皇家の荘園になったため、宮内庁に関係史料が数多く残っていたことにより判明したのです。
(聞き書き・中村英美)
(2017年8月19日掲載)


写真=信濃川流域の研究で現場を調査(新潟県福島潟)
 
井原今朝男さん