
1980年代から2000年代前半にかけて、都道府県や市町村で自治体誌の編纂が盛んに行われ、私たち大学教員や院生も含めて、自治体の史料の解読や編纂をする仕事が多くなりました。
明治百年や自由民権百年記念事業、さらには列島改造で地域開発が進み、埋蔵文化財調査もピークになったころです。歴史学界でも中央史や国家史、政治史、外交史と、地域史、郷土史、自治体史はボーダーレスの時代になりました。山川出版社の47都道府県の「県史」シリーズなどがこの一つです。
全国各地で歴史館や文書館、考古館、埋蔵文化財センターなどが新設、増設された時期でもありました。
自治体誌編纂に参加
私の場合、88年から02年まで14年間、諏訪市誌編纂で諏訪大社の文書調査を行い、横浜の金沢北条氏の菩提寺である称名寺文書によって、北条氏と諏訪氏の密接な関係を明らかにしました。
04年発行の長野市誌編纂では、七二会村守田神社の鉄砲伝書が天正19(1591)年のもので、国立歴史民俗博物館の稲富流伝書よりも古い岸和田流伝書で、日本最古のものと判明しました。
豊野町誌、上越市誌の編纂にも参加し、いずれも04年には刊行を終えました。歴史学の社会的貢献が、国民生活にも浸透した活動でした。多くの住民の皆さんと現地を歩き、たくさんの史料類を見せてもらい、土地に刻まれた歴史を体感しました。
大学院大学の教授時代の大きな仕事として博士研究者の育成がありました。2000年に慶応大大学院を修了した学生が1人、大学院大学に入学してきました。
ここでは1対1の授業になります。厳しく指導していたつもりはなかったのですが、ある時、「先生は僕のことがきらいなのですか」と思いもよらないことを言われて驚いたことが印象に残っています。今では、京都国立博物館の研究者になっています。
教授会は前、後期に1回ずつ、東京と京都のホテルの大会議室に、東京、千葉、京都、大阪の基盤研究機関から120人ほどの教授が集まって開かれました。博士論文審査が主要議題で、史料の実証性や論理性、到達度の明晰さ、独創性で審査をしました。
2000年7月の上越教育大大学院での集中講義を最初として、東北学院大、日本女子大、国学院大大学院、大阪大大学院などから授業を頼まれ、出向して教壇に立ちました。
特別奨学生の選抜も
博士論文の指導と審査では、国学院大大学院、東京大大学院の博士論文審査も頼まれました。09年には、日本学術振興会特別研究員等専門委員及び国際事業委員会書面審査員に委嘱され、全国の大学院生の特別奨学生申請の書面審査とともに候補者の選抜に当たりました。特別奨学生は、7万人近くいる大学院生のほんの一握りで、年間300万円の研究費を受け取れるのです。
自分の大学院だけでなく、ほかの大学での博士論文指導などを通して、日本の最高レベルの博士研究者の育成に関与できたこと、合格論文の多くが、学術専門書として刊行され、学生が専門研究者として学界に認知されたことは、とてもうれしいことでした。
(聞き書き・中村英美)
(2017年8月26日掲載)
写真:長野市誌の完成を祝った記念式典(左から2人目が私)