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203 信州新町・牧之島城 ~遺構が示す築城の絶妙さ

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 「ここは城設計の絶妙な原点を見ることができるのです」。犀峡郷土史研究会長の武田武さんは、ボランティアガイドをしている長野市信州新町牧野島の「牧之島城跡」を、訪れた人たちに自慢している。

 「日本一は姫路城、県内なら松本城ですが...」に続けて、牧之島城の価値を強調する。

 「甲州武田流」と呼ばれる軍略の秘密を見て取れる三日月堀、深い空堀、枡形、本丸と井戸、二の丸、丸馬出ししの跡。約450年前の戦国時代初期の代表的遺構がそっくり残る。城の南、西、北側を犀川が囲む。特に南側は断崖になっており、地形を生かしていることもよく分かる。

 城跡には桜が植えられ、春は花見でにぎわう。旧信州新町の教育委員会で城跡の発掘調査や整備に苦労した武田さんは、牧之島城の知名度が低いのがもどかしい。

 1566(永禄9)年、武田信玄が馬場信房に築かせたのが牧之島城だ。海津城(松代城)と共に、上杉の進攻に備え、更級、水内を治めるためとされている。それ以前のこの地域は、香坂氏が佐久地方から進出、豪族となった。ちなみに香坂氏は馬の飼育で力量があり、海津城の築城に関わった。

 牧之島城の本丸は東西56メートル、南北50メートルほど。馬場信房は「長篠の戦い」で戦死し、土塁に標柱が立つ。武田氏滅亡後は、上杉景勝の属城となるなどし、1616(元和2)年に松平忠輝(家康6男)の改易処分に伴い、廃城となった。築城からわずか50年である。

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 「背後の10数軒の下田屋は城下町の名残。鍛冶だったというお宅もあり、百間馬場もあります。『滅私』の武士精神、そのよりどころである古刹もそろっています」。武田さんのガイドで、城跡から歩いて約10分、普光寺を訪ねると、歴史的遺物を見ることができる。

 松代藩初代藩主真田信之の正室、小松姫が着用していたという袈裟が桐箱で保存されている。布地は、徳川家康が戦陣で愛用した「保呂(ほろ)」を賜ったものと伝える。袋状の布で鎧の背に付けてなびかせ、流れ矢を防いだのが保呂だ。

 くすんだオレンジ色、風化して粉々になりそうな状態ではある。だが、赤地九条袈裟(あかじくじょうけさ)と命名されており、元は豪華な絹布であったことを想像させる。小松姫のお霊屋(たまや)がある松代の大英寺に奉職した僧職の事績古文書を読み解いて、武田さんが研究仲間と近年見つけた。

 歴史への興味をかきたてる牧之島城跡は、確かに一見に値し、知名度はもっと上がってもいい。


写真上=牧之島城跡を案内する武田さん(左)
下=小松姫が着用したと伝えられる赤地九条袈裟
 
足もと歴史散歩