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204 武水別神社 ~変わらぬ人気のお八幡さん

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 千曲市八幡にある武水別神社の西側道路と旅館街を隔てた高台にある「松田館」。同神社神主の松田家屋敷である。ここで火事が起き、県宝の主屋や斎館など5棟が焼失したのは、9月6日のことだ。

 斎館は、同神社の「大頭祭」出達式などが行われる。大頭祭は、五穀豊穣に感謝する新嘗祭で、国の選択無形民俗文化財だ。

 豪壮で広大な神主の屋敷があることを知る人は、同神社の参拝者でも少ないだろう。神主の豪族級の権勢とともに、同神社の権威の高さをうかがわせる。火事で焦げ茶色に変色した屋敷林が痛々しい。

 武水別神社は戦国時代、川中島の戦いに巻き込まれ、上杉謙信の戦勝願文が奉納されている。戦前は出征兵士が家族らと来て武運長久を祈り、周辺で宴を催し、にぎわった。

 小学生のころにバスで年寄りと日帰りの行楽で来た、神馬として飼われていた木曽馬を見た...。人生の節目などに幸運と御利益を祈願する聖地として、戦後も人気だ。「やわたのお八幡さん」とも呼ばれ、親しまれている。

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 八幡信仰のルーツは古代中国。都へ攻め上る大軍が、目印に軍旗として8本の幡をなびかせたことに由来する。日本に渡来して、宇佐八幡宮(大分県国東半島)に伝わってきた。

 聖武天皇発願の東大寺大仏建立が難航していた時、「仏様の守り神」として奈良に勧請(かんじょう)され、多大な御利益を示した。ここから日本独特の「神仏習合思想」が全国に広がった。学問、商売、勝負ごとなど、守り神として知れわたり、諏訪信仰や天神とともに、全国の村々に広がり、大和政権の支配ツールともなった。

 本殿は江戸時代末期の1850年建築。代表的な八幡造り、諏訪大社と同じ立川流である。

 注目すべきは、境内の摂社、末社だ。鳥居近くの高良社(こうらしゃ)は室町時代後期の建築と伝えられる。本殿の後ろには、古代史から近世、現代の英雄や山野の神々が勢ぞろいしている。

 イザナギ、イザナミはもとより、大和政権草創の神武、日本武尊、天神さまに徳川家康、山の神や荒神さまなど、パワーあふれる神々が、長屋のように連なる社殿、祠で出迎えてくれる。

 原始的な畿内の信仰が神仏習合して、全国の庶民に広まったことがよく分かる。戦国時代や戦時には武運を、現代は豊作と健康、交通安全を願う。

 境内には4、5トンはあろうかという大きな水石も鎮座する。千曲川の水流で数百年、磨かれた奇岩だ。水底から引き揚げるには大きな人力と荒縄が必要だ。神主松田家の大きな権力を推察できる。北信では一番の大社として、一度は参拝してみたい。
(2017年10月28日掲載)

写真上=多くの参拝者を迎える武水別神社境内
下=神々が並ぶ末社
 
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