通称「SBC通り」を挟んだ北側の住宅地にある盛伝寺は、曹洞宗の名刹だ。
住居表示だと、吉田2丁目になるが、行政連絡区やバス停など「押鐘」とも呼ばれる。かねがね不思議に思っていた押鐘という地名の由来を、最近ようやく知ることができた。「真田ブーム」のおかげである。
戦国時代、村上義清は今の坂城町を本拠地とし、権勢を誇った。「信濃の大将」とも呼ばれ、甲州から攻め入った武田信玄を、2度にわたり打ち破った。最初は1548(天文17)年の「上田原(上田市)の戦い」。2度目は50(同19)年、退却する武田軍を村上軍が攻めた「砥石崩れ」。真田幸隆は武田方に加わったとされている。
村上軍配下で砥石城にこもったのが、吉田の城主多田盛遠の3代目である盛清である。盛清は砥石城にこもり、山ろくから攻め寄せる武田軍へ戦鐘を激しく打ち鳴らして反撃し、大勝した。
「鐘の音で兵を鼓舞して、敵軍を押しつぶした戦ぶりは見事である。これより押鐘と名乗るがよい」と、村上義清に褒められて改名し、浅川の扇状地にあった平城も「押鐘城」としたという。これが地名として残った次第である。近年まで周辺に土塁や水堀の跡が残っていた。
後に、村上氏は越後の上杉氏に頼る。武田軍の攻勢と真田氏の戦略に敗れたとも伝えられる。この時、押鐘氏も村上氏に同行して、越後に入った。盛伝寺の「盛」は、初代の名残という。第24世住職の新津英明さんは、1576(天正4)年に北信濃では数少ない曹洞宗の有力寺として、現在地に復興して約450年にもなる―と話す。
「戦国の村上氏動静については、史料や文書が少なく、分からないことばかり」(中世史研究者)というが、押鐘の名は善光寺平と村上氏の意外な関わりの深さを示す。
盛伝寺の広大な境内には、本堂や庫裏のほか、成田山新勝寺由来の不動尊堂や1986(昭和61)年に新装した仁王門が威容を誇る。
参道の左右には、大きなニシキゴイが泳ぐ池泉や、桜や松の古本がすがすがしい。
地元の郷土史研究者によると、「押鐘城主だった押鐘さんの子孫は健在で、電力会社に勤める青木村出身の方は、押鐘氏の事績復興を望んでいる」という。
寺の周辺は、あぜ道などが入り組んでいる。車では袋小路や行き止まりが目立つ住宅密集地だ。「かつては遠くに吉田の街並み、目の前に信越放送のアンテナがそびえるだけの田畑ばかりの光景だった。こんな住宅地になるとは...」。昭和20年代から住んでいるというお年寄りはこう話してくれた。
(2017年11月25日掲載)
写真=寺名が押鐘氏初代・盛遠の名残という盛伝寺の本堂