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206 福島正則 ~高山村で波乱の生涯閉じる

 戦国武将の生涯は、おしなべて波乱に富んでいる。中でも福島正則(1561~1624年)は、広島城の無断改修をとがめられ、1619年に50万石の所領を没収され、信濃と越後の4万5千石に移されて蟄居した。「福島正則屋敷跡」(県史跡)が高山村の街道脇にある。

 須坂市街から山田温泉へ向かう。村に入って数百メートル、リンゴ畑や田んぼの連なる中に、70アールを超す平地が立派な石垣に囲まれている。四辺を土塁と空堀で囲み、城に近い構えだったと伝えられる。遺構として土塁が数十メートル残るとされるものの、草が茂っているので、定かではない。

 50万石といえば、加賀の前田100万石、仙台の伊達60万石に次ぐクラスの大名だ。それにもかかわらず、なぜ北信濃に配流されたのか。

 正則は幼少から豊臣秀吉を支えた重臣。「賤ヶ岳の戦い」(1583年)では「七本槍」の一人と称され、朝鮮出兵にも加わった。秀吉が、養子であり関白を譲った秀次に切腹を命じた時には、使者として派遣された。

 功利に敏感な武将だったと評されている。天下分け目の「関ケ原の戦い」(1600年)では、豊臣のリーダー石田三成に対する反感から徳川方に加わり、報奨として広島50万石を得た。一説には、徳川方に付いたのは、豊臣残党の集団指導体制に展望なし―と読んだとされる。

 だが、2代将軍秀忠の時代になると、風向きが変わってくる。まだ、豊臣氏に恩顧を受けた大名が数多く残っていた。「これらを無力化して追放しないと、徳川体制は盤石にならない」というのが、秀忠らの基本方針だった。

 無理難題の言いがかりを突き付けて邪魔者を消すのは、戦国時代の習いと言っていいだろう。正則への最初の配流命令は津軽、南部地方。信濃に変更されたのは、幕府が正則の家康への貢献に配慮したとの見方もある。ともあれ、4万5千石の捨て扶持に甘んじることになったのだ。

 信濃に来た正則は、検地や治水、新田開発に功績があったと伝えられる。だが、64歳で病死。幕府役人の検死を受ける前に荼毘に付したことを問われ、御家断絶、所領没収となった。徳川の権威高揚の材料にもされた。

 晩年の5年を過ごした高山村の屋敷跡には、後に移転してきた高井寺が建ち、地元文人らの筆塚、記念碑などがある。小布施町の岩松院には正則の霊廟もある。

 屋敷跡の道路脇に、銀色に塗られた鉄骨の火の見やぐらがある。須坂市街から千曲川、善光寺平まで一望できる。波乱の戦国武将は、この眺望をどんな思いで見ていたのだろうか。
(2017年12月23日掲載)

写真=福島正則の屋敷跡を囲む石垣。後世に築かれた石垣だが、屋敷がかなり大きな規模だったことを推測させる
 
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