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209 千曲川 ~桜と菜の花 江戸時代の暮らしに思いが

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 長野市街地からアップルライン(国道18号)を北上、右折して小布施町へ。千曲川に架かる小布施橋を渡る。右岸に広がる千曲川河川公園は、例年4月下旬から5月初めにかけて、新たなお花見スポットとして、とっておきの場所だ。

 堤防沿いの全長4キロに約600本が花を咲かす八重桜・(一葉)(いちよう)ばかりの「桜堤」や、約1・5ヘクタールに広がる菜の花畑。青空に、ピンクと黄色が鮮やかに映える。一葉は遅咲きのため、桃やリンゴの開花とも重なり、息をのむ豪華絢爛な光景が楽しめる。

 公園は1993年度から98年度にかけて、町と建設省千曲川工事事務所(当時)が造った。河川環境整備の一環と位置付けられるように、住民の暮らしは千曲川と、長く、深く関わっている。

 洪水はその一つだ。千曲川の川幅は中野市立ケ花付近で極端に狭くなり、200メートル余。大雨になれば、滞留した流れが大規模な洪水を引き起こす。須坂市や小布施町、長野市の豊野地区や赤沼、長沼、大町辺りの住民は、かつて「3年に1度は水に漬かる運命」と嘆いた。

 1742(寛保2)年の台風豪雨による大洪水「戌の満水」では、千曲川流域で上流の南佐久から下流の飯山まで、3千人の死者が出たとされる。松代藩はこの後、北東へ約700メートル、千曲川の流れを移した。この時、立ケ花では10・9メートルの水位を記録。このことを記した標柱が、小布施にもある。

 菜の花畑も北信地方の歴史と切り離せない。あんどんに使う灯火用などの油が取れた菜の花の大産地。江戸時代、千曲川の中州などは菜の花で覆われ、小布施の人たちは「黄金島」(こがねじま)と呼んでいたという。現在は地元有志でつくる「山王島黄金島の会」が管理をしている。

 長野市東町にある「ちょっ蔵おいらい館」の建物は、江戸時代の商家「油問屋三河屋庄左衛門商店」だ。戦前まで市内最大の菜種油問屋だったといい、道路拡張に伴い市が移築、復元し、2001年に同館がオープンした。江戸時代からの豪商、須坂市の田中家も、初代が商いを始めた時から、穀物などとともに菜種油を扱っていた。

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 千曲川は江戸時代から物資の輸送ルートとしてにぎわった。塩干魚や塩を載せた真っ白な一枚帆の「千曲川通船」が行き交った。船は陸上ルートで運ぶより、早く安全に大量輸送ができた。小布施から上流の福島(須坂市)や松代から、農産物やアンズの種子が近畿方面へ運ばれたという。

 1918(大正7)年、国が直轄施工する制度の適用を受けた千曲川改修事業が始まった。国土交通省千曲川河川事務所や県などは今年、100周年記念イベントを計画している。また、3月10日には、須坂市福島と長野市若穂間約4・5キロの堤防改修事業の起工式も行われた。

 堤防や河川敷に広がる桜や菜の花を(愛)(め)でながら、江戸時代の人々の暮らしに思いをはせてみることをお勧めしたい。
 
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