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02西鶴賀町で育つ ~商売物の粘土で遊ぶ 中学から家業手伝う

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 私は1941年12月17日に生まれました。生家の住所が、長野市西鶴賀町1941番地17番戸と、私の誕生日と一緒ということに不思議な運命を感じました。ただ、誕生時に運を使ってしまったのか、その後の人生で数字運に恵まれることはありませんでした。連載のスタート早々、たわいない話で恐縮です。

 当時の家は、田畑の多い準農村地域にありました。女の子が2人続いていて、待望の男の子の誕生で、両親は大変に喜んだそうです。ただ、その後も女の子3人が生まれて、結局、1男5女という構成になり、少し残念がったようです。

 やはり、家業が瓦の窯元で、さらなる後継者が欲しかったからだと思います。

手先の器用さを発揮
 家には、「ねーやさん」というお手伝いさんがいて、彼女はいろいろと身の回りの面倒を見てくれました。

 太平洋戦争開戦から間もなく、私は生まれたので、物心付く頃に、ねーやさんの背中で、空を飛ぶ飛行機を見たのをおぼろげに覚えています。

 姉が通っていた市社会会館保育園には、園児になる前からついて行っていました。戦後、5歳の頃、長野市に天皇陛下が巡幸された折に、通園していた市社会会館保育園で私たちの遊戯をご覧になられたのを記憶しています。

 鍋屋田小学校に入学した時、たくさんの桜がきれいに咲き誇っていて、校舎の南の真新しい木製の滑り台で記念撮影をした写真が残っています。

 家では、商売物の瓦の粘土で遊びながら、いろいろな物を作っていました。当然、学校の宿題で出された粘土細工も器用に作り上げ、きれいに彩色を施し、表彰されたこともありました。

 高学年になった時には、描いた絵画でも表彰されました。手先の器用さは、当時から芽生えていたのだと思います。

 勉強は嫌いではありませんでした。後に現役で東京大学に合格した同級生もいましたから、お互いに刺激し合っていました。

 また、近所にあった同級生の家のそろばん塾にも通い、2級まで進級しましたが、自分の実力の限界を悟り、途中で挑戦をあきらめました。

早朝から働く両親
 小学生の頃といえば、1949年の豪雨による裾花川の氾濫を思い出します。やじ馬根性が旺盛な母の手に引かれ、中御所まで見に行ったところ、くるぶしの上まで浸るくらいの川の水が道路にあふれ、玉石もごろごろ散乱していました。今の街並みから考えると、とても想像できません。

 鍋屋田小学校を卒業し、柳町中学校に通学するようになると、家業の手伝いを始めました。登校前、プレス整型した生瓦を天日に干して乾燥するため、工場から庭へ運び出しました。下校後は、それを取り込むという作業を、雨の日以外は毎日繰り返しました。

 決して体力的につらい作業ではありません。けれども、手伝いをする中で、早朝から夕方遅くまで働いている両親の姿を見ていて、これは自分にとって一生の仕事ではないなと悟るようになっていきました。

 手伝い仕事のこともあり、部活には本腰を入れて取り組むこともしませんでしたが、学業をおろそかにすることはありませんでした。
(聞き書き・塚田裕文)
(2018年5月19日掲載)

写真=ねーやさん(左端)に抱かれた私と母(右端)やきょうだい
 
小笠原多加夫さん