長野市吉田と稲田の境にある「他力橋」に出掛けてみた。「たちからばし」と読み、浅川に架かる。何の変哲もないコンクリート橋だ。市街地と若槻方面を結ぶ路線バスが行き交う。旧北国街道でもあるので、片側1車線の道ながら、交通量は多い。
飯縄山から流れ出る浅川は、長野市東北部の住宅街を流れ千曲川に流れ込む。河床が周辺の平地より高い「天井川」の浅川は、昔から洪水を引き起こしてきた。他力橋を訪ねたのは、橋名の由来、洪水との関わりが興味深かったからだ。川中島町の北沢忠雄さんに勧められた。
橋のたもとに、橋の説明が掲げられている。要約すれば「もともと橋はなく、洪水の時に旅人が不便だったので人々が金を出し合って架けた。そのため橋の名が他力となった」とある。
若槻地区住民自治協議会稲田区が2011年に立てた。説明の内容は、1881(明治14)年刊行の「長野県町村誌北信編」からの引用であることが記してある。1936(昭和11)年発行「長野県町村誌北信編」では「手力橋」とされている。「タチカラ」と読みが振ってある。
長野市誌編さん室がまとめた「松代藩災害史料15」に、1832(天保3)年に地元の名主らが橋を架けた経緯を記す石碑建立の許可を求めた文書がある。それによれば「隣村の大勢の助力を得て、橋が成就した。名を多力(たちから)の橋という」とされている。
橋と川の管理は江戸幕府の交通政策の要だった。主要5街道には橋を架けず、人々は徒歩や船で渡るのが原則だ。諸大名が通った北国街道も例外ではなかった。

吉田は江戸時代から農産物や物資の集散地だった。松代藩はこの橋の近く、相ノ木通りに小規模関所「口留番所」を設けて、人と物資の出入りを監視した。
その街道と交わる浅川に橋がないとなれば、人々の苦労は半端ではなかっただろう。大八車や牛馬の背から下した重い荷を持って、土手を上り下りし、川を渡る手間は大変な重労働だ。堤防を築いても、上流からの土砂の堆積で河底が上昇する天井川なので、大雨ですぐにあふれてしまう。
幕末に向かうころ、飢饉が相次ぎ、各藩は財政窮乏の時代。人々が金を出し合って橋を架ける―という発想とその実行力は強く印象付けられる。多力の橋と命名し、碑文に刻もうとしたと考えると、他力橋は多力橋だったのではないか―という見方が胸に落ちる。
(2018年4月28日掲載)
写真=浅川に架かる他力橋。元の名は「多力橋」か