記事カテゴリ:

211 福島正則 ~高井寺に伝わる晩年の功績

0526rekishi01.JPG
 福島正則(1561~1624年)は、豊臣秀吉の天下取りに貢献した有力な戦国武将だ。須坂市の中心市街地から東へ進み、高山村堀之内にある高井寺は、正則が晩年の約5年間を過ごした居館跡地にある。「福島正則公屋敷跡」として県史跡にも指定されている。

 巷間、正則は「乱暴狼藉者」といった芳しくない言われ方をする。だが、「この地に蟄居させられて亡くなるまでの間、新田開発や本格的な検地をはじめ、治山治水に力を入れ、人望を集めました」と、同寺住職の小野沢憲雄さん(76)。

 正則は高山・小布施境を流れる松川の「千両堤」を築き、中野の延徳田んぼ開発に先鞭を付けた。参拝者らに、高山村に配流になった時に携えてきたと伝わる「福島正則公肖像画」などを見せて、熱弁を振るう。

 正則は尾張(現在の愛知県)の生まれ。秀吉の叔母の子であり、小姓になった。数々の戦陣の先頭に立ち、「賤ケ岳の戦い」(1583年)の軍功による5千石を皮切りに、領国を広げ、「関ケ原の戦い」(1600年)後には安芸備後(現在の広島県)に50万石を得た。

 「機を見るに敏」という印象がある。もとは豊臣陣営の重鎮だが、石田三成との対立から徳川陣営に傾いた。大坂冬の陣、夏の陣(1614・15年)では巧妙に立ち回ったという見方がある。

 正則が信濃に移されたのは1619年のこと。台風被害で崩れた広島城の石垣などの修復が「武家諸法度」違反に問われた。川中島と越後魚沼の計4万5千石にまで落とされた。徳川政権の大大名取りつぶし政策だったとされる。

0526rekishi02.jpg
 小野沢さんが寺所蔵の掛け軸「福島正則公絵伝」を見せてくれた。5枚の絵で、正則の死後、高山村での日常を描いたと伝わる。中の1枚に、妊婦の腹を切り裂き胎児を取り出しているように見える場面がある。だが、小野沢さんは「戒名を付けて成仏を祈るために、死んだ胎児が男か女かを調べている様子だ」と、正則の残虐、非道さを表すという見方を否定する。

 「死後に、家臣や領民らが正則の功績を後世に残そうとしたのではないか。文章で残すと徳川幕府からとがめられるので、絵にしたのではないか」と話す。

 正則が愛用していたと伝わる約60センチの槍も、訪れた人に披露する一つ。穂先に血抜きの溝が掘ってある珍しい構造―と、小野沢さんは説明する。突いた敵兵から噴き出す血潮を瞬時にさばく仕組みだ。血のりは武闘を妨げる。

 高井寺が屋敷跡に移ってきたのは1785年。境内には、台座を含め背丈の2倍はあろうかと思われる戒名を刻んだ墓碑もある。一部ではあるが、屋敷当時の石垣も残っている。

 畑作や果樹地帯で北信五岳も望める場所でもある。戦国が見た光景に思いをはせた。
(2018年5月26日掲載)

左=福島正則公肖像画(高井寺所蔵・勝山写真館提供)
上=「絵伝」を説明する小野沢憲雄住職
 
足もと歴史散歩