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04 富士重工業入社 ~仕事は順調だったが 膝が腫れ歩行困難に

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 友人に誘われて行った妙高で、初めて本格的なスキーを体験した長野工業高校生時代。スキーがその後の私の人生に大きな影響を与える結果になりましたので、そのきっかけの一つだったのかもしれません。

 大学進学はかないませんでしたが、校風が性分に合っていたのか、楽しい充実した高校生活を過ごしました。

 卒業後の就職先は、富士重工業(現スバル)に決定。当時、就職市場は1人に10社という売り手市場で、選択肢も多かったのですが、バス、車両、スクーター、飛行機、ヘリコプターと生産している製品の豊富さと、国の基幹産業を担っている印象が強いことが決め手になりました。

ソフトボール大会で
 1960年4月1日、群馬県の伊勢崎製作所に入社。最初の勤務先はスバルサンバー(軽商用車)工場で、会社の寮「静山閣」から東武伊勢崎線で通勤しました。

 初めての仕事は、生産ラインに立ち、組み立てなどの作業をしました。まだ養成段階の身ですから、数カ月は先輩が付きっきりで指導してくれ、その後、単独で作業をするようになったのですが、ラインに立って半年後の10月には、太田製作所の新工場「スバル360」の生産ラインに転勤になりました。

 伊勢崎工場とは違っていて、ダクトシステムや流れるラインなど、最新の設備が整っていて、格段に作業がしやすくなっていました。
 ただ、「物を造る」といったクリエーティブな仕事をしたいという抱負を持って入社したので、生産ラインでの仕事は、本来は好きではありませんでした。

 それでも、しっかり作業をこなし、順調に勤め人時代を歩んでいましたが、好事魔多し。

 入社して、間もなく2年になるという61年秋、会社恒例のソフトボール大会でのことでした。私は、チームの投手を任され、当日行われた4試合全てを投げ抜きました。

 ところが、迎えた翌朝のことです。全身が痛くて寝返りは打てず、左膝を見ると、大きく腫れ上がっていて、歩くこともできません。もちろん、緊急入院です。

 驚いたことに、診断結果は「左膝関節痛」。1カ月半、湿布薬を張り続けましたが、症状は変わらず。慶応大学病院から専門医が来てくれましたが、結局、同じ治療に終始しました。

 治る見込みが分からないまま入院していた私は、いらだちも募っていて、会社の仲間からお見舞いにもらったたばこに火を付けました。

静養で一時帰省
 初めて喫煙をした瞬間でした。これを契機に、たばこを続けるようになってしまいました。それでも、少しは歩けるようになったので、静養のため、長野の実家に一時、帰省しました。

 家に着くと、再び痛みに襲われ、歩行困難になってしまいました。県内でも屈指の大きい病院に2回、検査に行きましたが、発症の原因が分からないと言われ、治療されませんでした。

 痛みとの戦いに終止符を打ちたい私は、わらにもすがる思いで、千歳町の小林病院で診察を受けると、先生が即断で口にした病名が「関節炎」でした。10センチもある注射針で、大きく膨らんだ膝から大量の水を抜き、今度は薬を注入しました。すぐに痛みが和らぎ、歩けるようになりました。
(聞き書き・塚田裕文)
(2018年6月2日掲載)

写真=入社して間もなく、同期の仲間や上司と(左から2人目が私)