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05 宇都宮製作所で ~スキー板開発部門に 試行錯誤して試作品

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 ソフトボールをきっかけにした左膝関節痛で大騒ぎした2カ月も、長野のお医者さんの診察で、あっという間に解決するという落ちがつきました。痛みがなくなったことで、再び普通に歩ける喜びに浸りながら、年が明けるまでしっかり実家で療養をしました。

 1月下旬に現場復帰しましたが、成人式に出席できなかったことは、今でも悔いが残っています。

 その年の夏、宇都宮製作所航空機工場の技術部材料課で、新製品開発のため、スタッフを募集していることを耳にしました。新たな挑戦をしたいという気持ちがあり、膝のけがによって長時間、生産ラインに立ち続ける体力への不安もあり、応募しました。

分析やデータ収集
 希望がかない、1962年8月16日から配属になり、勤務先からほど近い、「雄飛寮」に入寮しました。当時の宇都宮製作所航空機工場では、YS―11の尾翼、ヘリコプター、練習機、軽飛行機などを生産していました。民間機を除くと、大半は自衛隊が対象でした。

 ただ、景気が落ち込んでいるころで、業績回復の打開策として、航空機産業の最先端技術、FRP(強化プラスチック繊維)を使い、一般市場向けの新製品を開発することが会社の狙いだったようです。その新製品が、FRP製のスキー板でした。

 当時のスキー板は木製が主流でしたが、FRPへの人気も出始めていました。FRPのシートを木製の板にラミネートしたものは出回っていましたが、完全オリジナルはロシニョール社(仏国)製1社ぐらいでした。

 スキー板開発部門発足と同時に、さまざまな分析が始まりました。まず、市販のスキー板の中から、比較的グレードの高いものを購入し、強度(曲げ、ねじれ)試験、断面構造を調べるなど、膨大な基礎データを収集しました。

 ロシニョールを目指し、時代の先端を行くエッジ、ソールにグラス繊維をロービングしたクロスを使用し、エポキシ樹脂で内圧を加えて、高温で一気に熱して金型で整型するなど、試行錯誤を繰り返しながら、64年の冬に「SUBARU SKI」の試作品が完成しました。早速、国内のスキーの名手、東大八年生の福山辰氏、冒険家三浦雄一郎氏などに試走を依頼しました。

思わぬ撤退指示
 その年の春、青森県酸ケ湯でスキーをされていた三浦氏を、評価の依頼で訪ねた際には、八甲田山の雪山をスキーで案内をしていただくなど、いつの間にか、作る側から売る側になっていました。

 高評価を得られて製品化する直前、思わぬ指示が会社の上層部から伝えられました。なんと、スキー板の開発プログラムからの撤退でした。世の中の景気もV字回復で持ち直したことで、本業重視に再びシフトしたのです。

 応用課に配属されると、管理する立場になりました。自社製ワンマンバスのハニカム構造の扉に航空基地の滑走路の離着陸用機器を格納するシェルターなど、多種多様の設計に始まり、工作課あるいは下請け会社への製作指示、検査、納品までを行っていました。

 二十歳そこそこの若造が、大先輩の方々に指示を出すことに、つらい部分もありましたが、やりがいも感じ、毎日が充実していました。
(聞き書き・塚田裕文)
(2018年6月9日掲載)

写真=宇都宮製作所で行われていたスキー板開発