記事カテゴリ:

07 実家で修業の日々 ~追いつけ 追い越せ 必死に技術を覚える

 富士重工業を退社して、後を継ぐために実家の小笠原瓦店に入ったのは、1967年6月、25歳の時でした。長野市内には、小柳瓦店、錦町の杉浦瓦製作所、柳原の石川製瓦店、中御所の内藤製瓦店窯元と、瓦店が4店もあり、それぞれ子どもさんたちが、既に後継者として活躍していました。

 ライバル店でもある彼らから後れを取っていることは明らかでしたから、「追いつけ、追い越せ」の努力は並大抵ではありませんでした。

 瓦の製造で約80年の歴史がある実家は、当初から、瓦を800枚ほど焼ける大きなダルマ窯を1基所有していました。

熟練の職人と共に
 白地を窯詰めしてから、焼成、煉化、窯出しという製造工程は通常、3、4日も要する手間のかかるもので、店では主に、五六(ごんろく)判の桟瓦(さんがわら)を製造していました。住宅の屋根に普通に使われている瓦です。その歴史は古く、誕生は江戸時代までさかのぼります。

 その頃、瓦を載せていたのは城郭や寺院などでした。というのも、平瓦と丸瓦という2種類の瓦を組み合わせて使っていたので、大変重く、しっかりした建物の屋根に限られていたようです。

 そこに、二つの瓦を一つにまとめて誕生したのが桟瓦でした。重さも軽くなり、コストも大幅に抑えられたことで、一気に民家に普及していったといいます。

 桟瓦を製造するだけではなく、もちろん販売、施工まで行っていました。会社には製造の職人が3、4人、施工の職人が父と私を含めて5人ほどいましたが、ほかの同業者のように、明確に専門化されていたわけでもありません。

 雨の日などは、屋根葺きの職人が製造を手伝い、逆に屋根葺きの手が足りない時は製造職人が屋根に上がっていました。当然、私も手伝わされました。

 職人さんたちは、40代から60代と熟練した経験者ばかりですので、「若僧」の私は、施工現場では修業の身として、手元中心の仕事が当たり前でした。

 当時は、粘土で瓦を固定する土葺きでの葺き替え工事も多く、手元仕事として、土練り、平葺き、棟取りの土のしが主で、10年近く経験しました。

 1年たった頃、新築工事で先輩の職人から「平瓦を葺いてみろ」と言われて、十分過ぎるほどの意欲で挑みました。

「ひよっこ」を痛感
 けれども、1、2列で腰が痛くなり、音を上げてしまいました。斜面で田植えをしているような屋根葺き仕事の大変さを実感し、まだまだ、自分がひよっこであることを痛感させられました。

 それから、新築現場では軒瓦の取り付けをさせてもらえましたが、平部や袖瓦という主だった施工は、先輩職人の仕事に変わりありません。

 施工が8割、製造が2割の仕事構成の中で、葺き師の父や先輩職人の後から、「あたらず、さわらず、食らい付いていく」の言葉を胸に、必死に技術を覚えていきました。

 私の父も、日本三大産地のひとつ、愛知県三州の「三州の長谷川」と名乗る葺き職人から多くを学んだと聞かされていたので、瓦のもつ奥深さを肌で感じました。
(聞き書き・塚田裕文)
(2018年6月23日掲載)

写真=西鶴賀の工場にあった瓦乾燥場のダルマ窯で作業をする父