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08 開店休業状態の冬 ~スキーにのめり込む 指導員派遣で妻と縁

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 かつては、全国各地を転々として瓦葺(ふ)きの技術指導をし、「三州の長谷川」と呼ばれたような「出稼ぎ職人」と言われた人が数多く存在したと聞きます。

 彼は風流な一面も持っていて、余枝を使って見事な木彫りを施す作家でした。雅号も、地元の地名だった愛知県碧海郡にちなんで、「碧州」と名乗っていました。私の家では今も、「名月」とうたった彼の作品を、倉庫の壁に飾っています。

 緊張の糸が張り詰める修業の日々の中で、私にとって冬は憩いの時期でもありました。

 というのも、私たちの瓦造りの仕事に冬の寒さは大敵。水で練った土が凍ってしまい、製造が不可能に、雪が降ると、屋外での仕事も、これまたできなくなるので、開店休業状態になります。

柔軟体操の相手
 職人の皆さんは、短期の雇用保険を頼りに生活していましたが、まだ若い私にとって、その心配はありませんでした。思う存分、好きなスキーにのめり込みました。

 1967年に、長野市内のスキークラブ「雪友会」(後に「まほろば」に名称変更)に入会しました。会員には、会社員や公務員、農家、庭師、医師と、さまざまな職業の人がいました。中には東京在住の人もいるなど、大変オープンな会です。このようなクラブと地域クラブの上部組織として、長野市スキークラブ、県スキー連盟、全日本スキー連盟などがあります。

 長野市スキークラブの前身である市スキー協会に入会して間もなく、戸隠越水のスキー学校の手伝いに派遣されていた時のこと。宿泊先のホテルに女優の吉永小百合さんが泊まっており、食堂の奥のテーブルで夕食を召し上がっていました。離れたテーブルで食べていた私は、声を掛けることもできず、吉永さんが寂しそうに見えたのを覚えています。

 同協会は、シーズンに入る前、会員を対象に体力作りのトレーニングを開いていました。城山公園を会場に、柔軟体操に始まり、走り込みなど、足腰の鍛錬を中心としたメニューが取り組まれていました。

 その柔軟体操のペアを組んだ相手が、後に、私の妻となる徳永栄子。運命的な出会いでした。その後、彼女も私が所属する「まほろばの会」に入会したので、先輩、後輩の間柄になりました。

戸隠国設スキー場で
 1965年に飯綱スキー場が開設されると、市協会の学校も併設されました。その数年後、戸隠の中社に全国的にも珍しい国設スキー場が造られました。ここにも、市協会がスキー学校を設け、私は常駐指導員として派遣されることになりました。

 1級資格を持つ彼女も派遣されていたので、2人で話す機会が多くなりました。話の中で、彼女と同姓の同級生がいとこと分かり、もともと同級生のお父さんが私の親たちの仲人さんの子分仲間と聞いていたので、因縁めいたものを感じ、彼女に関心を持つようになりました。

 彼女は23歳の時に準指導員試験に合格し、24歳のシーズン終了まで、常駐員を務め上げました。そんな時、一緒に常駐していた仲間が気を使ってくれて、私たちの間を親密に近づけようと、強力に後押しをしてくれました。
(聞き書き・塚田裕文)
(2018年6月30日掲載)

写真=長野市スキークラブの仲間たちと乗鞍夏スキー合宿=前列右から3人目が私