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10 仕事を覚える ~「修業」ではいられず 若い2世たちと交流

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 ベテランの葺き職人2人が退社したことで、店は大騒ぎになりました。1967年に店に入り、まだ3年だった私も、修業の身の「手元」のままでいるわけにはいかなくなったのです。

 仕事が終わった後や休日などを利用して、知識を蓄えるのに努力しました。ただ、当時は瓦関係の書籍が少なく、あっても考古学的なものばかりで、瓦の製造や工事に関するものもほんのわずか。苦労しました。

 国宝や重要文化財に始まり、数寄屋造りなどといった建築に関する本や、美術全集まで買い込んで読みあさりました。おかげで、家にある4つの本棚には瓦や屋根に関する本がびっしりと並んでいます。父も協力的で、限定版の高額な書籍も購入してくれました。

ベテランから吸収
 父が残してくれた図面や積算資料などは、長野工業高校時代に機械製図を学んでいたので、難なく理解できました。

 2代目皆吉の代から善光寺大勧進の出入り職人だったこともあり、若造の私もベテラン職人と一緒に入ることができました。これを勉強する絶好の機会ととらえていました。

 葺き替えの際の瓦を剥ぐ作業や、うろこ瓦(棟下の瓦)の入れ方など、先人から引き継がれてきた職人の手さばきや仕事の要領、技を、目を皿のようにして、少しでも吸収できるように努めました。

 ただ、漫然と眺めているだけではそのままで終わってしまうので、想像力を働かせ、推測しながら見るのです。どうして雨が漏ったのか、どういった土の置き方で屋根が保たれているのか―など、書籍以外からも、工夫次第で研究する対象がいくらでも見つかりました。

 仕事を覚えてくると、能率をよくする方法などで父と衝突するようになりました。ほかの職人の前では遠慮しましたが、父と現場が一緒の時は、いっぱしの口を利いていました。

 やはり、「他人の親方に付いたことがないから、職人のイロハが身についていなかった」結果でした。

 ただ、仕事の合間にさまざまな屋根を見る習慣ができたことで、日本の歴史的、伝統的建造物に強い憧れと興味を抱くようになり、その後の仕事に大きなプラスにもなりました。

県外工場も訪ねる
 店の騒動と並行するように、後に北信瓦工事組合の青年部となる「長野粘土瓦組合」の若い2世たちとの交流が始まりました。田町の小柳喜彦さん、錦町の杉浦俊資さん、柳原の石川光彦さんと中御所の内藤信夫さんも参加していました。

 市内5つの窯元から成り、月1回の懇親会で交流を深めながら、情報交換をしていました。懇親会が主だったのですが、次第に活動を広げ、三州の陶器瓦製造会社の工場を訪ねるなどしました。規模も含めた生産体制の違いとともに、何といってもクオリティーの高さに目を見張らされました。

 また、創刊間もない業界紙の存在を紹介され、購読を始めると、まさに自分が「井の中の蛙」で、思い知らされることばかりでした。購読を続ける中で、長野の業界として、また私個人としても、たくさんの情報を与えてもらい、逆に当方からも遠慮なく提供するなど、全国の窯元の皆さんと太いパイプでつながっていきました。
(聞き書き・塚田裕文)
(2018年7月14日掲載)

写真=同業の若い2世たちらと東大寺を見学=1975年・後列右端が私