
長野市街地から西方の中山間地一帯は「西山地域」と呼ばれる。気ままに訪ねて驚くのは、谷間や尾根近くで立派な寺院に出合うことだ。信州新町の犀川右岸側の山中にある興禅寺もその一つ。地元の郷土史家が「必見の禅宗大伽藍です」と案内してくれた。
古城跡の牧之島城下、民家が並ぶ脇道を車で数分上ると、広々とした畑作地帯に出る。その一角に、杉木立に囲まれた鐘楼、山門がそびえていて、威容にびっくりさせられる。見渡せば、北西に北アルプスの山稜が壁のように迫り、息をのむ絶景だ。
寺伝によると、馬の育成で名をはせた香坂宗清(こうさかむねきよ)が佐久地方から移住して牧之島城を築き、城の近くに興禅寺を創建した。鎌倉時代の正和年間(1312~17年)のことである。

京都の南禅寺や鎌倉の円覚寺に連なる高僧・見山宗喜(けんざんそうき)が招かれ、開基となった。僧侶の伝記集で1702(元禄15)年に成立の「本朝高僧伝」にも記されている人物だ。
鎌倉時代から広がった禅宗は、「戦って死ぬ」が職務の武士の信仰を集めた。城に付随する禅宗の寺は、覚悟と気概を誇示する場所となる。香坂一族は、巨大な梵鐘を寄進し、スポンサーである檀越(だんおつ)の筆頭となった。今日、篠ノ井辺りの香坂さん、高坂さんは、この末えいとも言われている。
時代は下って、牧之島城の香坂氏の後任となったのは馬場信房(のぶふさ)である。武田信玄が1566(永禄9)年に、新たな城を築かせた。信房は香坂氏に増して、興禅寺の隆盛に力を入れた。
山門の脇にある「馬場信房紀念碑」が目を引く。背丈の2倍ほどもある大きさ。明治時代に越後の信奉者が建てた。1575(天正3)年、織田信長と徳川家康の連合軍が武田勝頼軍を破った「長篠(愛知県)の戦い」に出陣した信房が戦死したことを惜しんでのこと。寺は位牌を守り、供養を欠かさない。
豪壮な鐘楼、山門だけでなく、壮大な位牌堂(本堂)も、興禅寺の見ものだ。新装された内部の柱は無垢のヒノキ材。かなりの費用が掛かっていると思われる。支える檀家は約500軒だという。
兵火に襲われたり、武田氏の盛衰や織田氏、徳川氏の支配に揺れたり、善光寺地震=1847(弘化4)年=で伽藍が全滅したり。創建以来、興禅寺の有為転変は尋常ではない。だが、その都度、再建した信仰者、檀家のパワーと財力は半端ではない。
西山地域では、中条にある臥雲院が「天空の寺」として、訪れた人たちを驚かす。西山を訪ねれば、鎌倉仏教、禅宗が人々に与えた影響が実感できる。
(2018年7月28日掲載)
写真上=興禅寺の豪壮な山門
写真左=「長篠の戦い」で戦死した馬場信房の「紀念碑」