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35母なる桑 14桑が足りない ~蚕の命が緊急輸送にかかる

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上州と甲州ゆ 桑を運ぶ くるま今夜もおくれて 村さわがしき

組合長の 制止するこゑ甲高し 分配きまらぬに すでに奪ひ合ふ
斎藤 梓
    ◇
 1首目の「ゆ」は、起点「...から」を示す助詞。現在の群馬県と山梨県から桑を運ぶトラックが、今夜も遅れてまだ着かない。待ちかねた村人たちがいら立ち、騒いでいる。

 2首目。組合長が必死に制止しようとして、甲高く声を響かせる。公平に分け合う段取りが決まらないうちから、もう奪い合いになってしまった。

 蚕に食べさせる桑が足りなくなった時の緊迫した状況だ。日々桑だけを食べて成長する蚕である。たっぷり与え続けなくては、質の良い繭ができない。その結果は養蚕農家の収入に影響する。殺気立つのも無理はない。

 1937(昭和12)年のことだ。まるでその場に立ち会うかのように臨場感あふれる歌の作者、斎藤梓(本名=豊)は、当時の南安曇郡梓村(現松本市梓川梓・梓川上野)に生まれた。

 一農民として村で暮らしつつ、歌を通じて時代と向き合う。1909年11月の誕生だから、当時は20代後半の青年だ。身近に遭遇した、生々しく切ない体験だっただろう。

 明治、大正、昭和初期にかけ、目覚ましい勢いで成長を続けた蚕糸業である。ところが29(昭和4)年10月24日、米ニューヨーク市ウォール街の株式が突如、大暴落する。これをきっかけに生糸の輸出が暗転した。

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 翌30年の昭和恐慌が繭の価格を急落させ、農村を底深く不況に突き落とす。そのまま低迷を続けて昭和12年、日本は日中戦争へとひた走っていった。

 蚕がいい繭を作るように育てるには、栄養分の豊かな桑を食べさせなくてはならない。それには、桑に肥料を十分施す必要がある。

 しかも明治半ば以降、刈り草・堆肥・下肥など自給できる肥料に加え、魚粕や豆粕をはじめ、金を払って仕入れる金肥が、次第に多く使われるようになる。

 不況に伴う繭価の下落は、この金肥を購入する経済力を養蚕農家から奪った。肥料の行き渡らない桑畑は疲弊し、気象災害や病気による被害を広げやすい。蚕の食べ盛りに桑を事欠く事態も招く。

 太平洋戦争の始まった昭和16年、斎藤梓は召集され、中国東北部からニューギニア、フィリピンと転戦。終戦直前の昭和20年7月30日、戦死の公報だけが届いた。35歳の若さだった。

 遺歌集「信濃国原(くにはら)」に「桑不足」と題する連作8首が収められている。
ある者は値のあがる桑に耐へきれず蚕を捨てしとふ 噂(うわさ)ひろまる
 痛恨の真情が、逆に桑の大切さを指し示す。

(2018年7月7日掲載)

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写真上=[桑の踏ん張り] 仲良く自販機と(長野市押田・2017年5月24日)
写真下=桑をむさぼる蚕たち
 
蚕糸王国うた紀行