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16 瓦の歴史 ~仏殿建築で百済から 火を防ぐ町人の知恵

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 「甍の波と雲の波 重なる波の中空を...」の歌詞で始まる「鯉のぼり」に出てくる甍は、瓦で葺いた屋根のことを指しています。瓦業界の専門用語では、屋根の上に棟を積む時に台として使う軒瓦の簡略葺きの形の瓦を甍と言います。

 勾配のある二つの屋根面が交わってできる峰が棟です。甍を一般住宅に使うことは少なく、土蔵か土蔵作りの建物、堂宮の屋根に多いのです。

 (甍)(いらか)(瓦)(かわら)を使う工法で積まれた棟は「甍棟」と呼ばれます。甍にも、台に使う「下甍」、棟の上部に使う「上甍」があり、甍瓦は急な屋根の勾配戻しが主な目的です。寺院など大きな建物の棟には板を張った箱型の中を人が通れるほどの大きな棟もあります。

平安時代は檜皮葺
 「観音の甍見やりつ花の雲」。私が住む町の常恩寺さんの十二北面観音堂の築山にこんな碑もあります。

 私も、寺社仏閣の屋根を手掛けるようになり、今は文化財に指定されている建物の修復なども行っています。今回は瓦の歴史について少々話しておきたいと思います。

 瓦は日本古来のものと思っている人が多いかもしれませんが、588年に朝鮮半島の百済から、仏殿建築(飛鳥寺)のために日本に伝わったといわれています。飛鳥時代は聖徳太子による法隆寺に代表され、白鳳時代は宮殿に、天平時代は国分寺、国分尼寺に瓦が使われました。

 一転して平安時代は檜皮葺が盛んに。空海、最澄に代表されるように、山間部に寺院が建立されるようになり、持ち運びが不便な瓦の使用量が減りました。

 そのため、瓦製造技術の低下も見られるようになりましたが、室町時代になって、瓦大工の橘吉重が、釘を使わなくても滑り落ちない軒瓦を発明するなど、瓦の質を向上させてくれました。安土桃山時代には、いぶし銀色の瓦製法が、安土城に代表される城郭建築に使われるようになり、それが現在に至るまで踏襲されています。

 武将が権勢を誇るための天守閣に、鯱が誇らしげに鎮座するなど、諸大名がこぞって築城しました。しかし、江戸時代に一国一城令により、築城に制限がかかりました。

明暦の大火を機に
 江戸では、大名の参勤交代に伴い、武家屋敷が数多く造られました。一方、町人の家は昔ながらの草葺き、板葺きといった粗末な造りの上、密集していました、1657(明暦3)年の「明暦の大火」では、無数の民家が被害に遭いました。江戸城も西の丸を残して焼失するという大火でした。それでも、幕府は土蔵以外の瓦葺きを禁じる「禁行令」を解きませんでした。

 人々は、火事に弱い藁葺き、茅葺き、板葺の屋根を、平瓦だけを葺く火除瓦で対処しました。禁行令をかいくぐって、火と水を防ぎ、自分たちを守る知恵です。

 江戸でそれを目にした近江の西村半兵衛が1674年、本瓦葺きの瓦よりも軽くて安価な瓦を作るために考え出したのが、平瓦と丸瓦を一体にした瓦です。後に桟瓦と呼ばれるようになり、従来の瓦は本葺き瓦と呼ぶようになりました。
(聞き書き・塚田裕文)
(2018年9月1日掲載)

2007年、私が手掛けた常恩寺十二北面観音堂の甍瓦
 
小笠原多加夫さん