
知る人ぞ知る名所である美和神社(長野市三輪)の「三ツ鳥居」が改築され、お目見えした。明神型の鳥居の両脇に、ちょっと小さな二つの鳥居があり、横一列に組み合わさっている。ハクチョウが羽を広げたような独特の形式だ。「三輪鳥居」とも呼ばれている。
「鳥居の根元が腐食し、傾いている」。今春、こんな通報が神社にもたらされた。1万6千人余が住む三輪地区の祭事で大きな役割を担う同神社にとっては一大事である。氏子ら幹部が急ぎ、建て替えを決定。役員らが栃木県に出掛けてケヤキ材を選び、氏子には寄進を呼び掛けた。
鳥居の崩壊で境内の安全も脅かされる―とアピールし、予想を超える寄進が集まり、総工費1千万円余りを賄うことができた次第である。改築の設計、工事は近くの会社が担当。古式を尊重しながら、やや太めに施工した。節のない4本の柱で鳥居がすっくと立つ。
美和神社のルーツは、同じ三ツ鳥居で有名な奈良県桜井市にある大神(おおみわ)神社だ。だが、美和〈古くは三輪〉や三ツ鳥居の由来を知っている人は少ないだろう。

そもそも鳥居は、古代農耕信仰に始まる。空から舞い降りて穀類をついばむ鳥は「神さまの使い」で神聖なものだった。転じて部族首長の権威と見なされるようになった。
収穫の共同作業や戦いの時は、意思を統一する集まりが必要になる。そのお触れは、首長の家の門柱に、生きた「長鳴き鳥」が掲げられた。四方に響く鳴き声が「今晩、親方さまから大事な話がある」と告げたのである。
後世、鳥は木製の鳥形に変わり、さおに下げられて掲示となる。中国大陸や朝鮮半島の古代遺跡から鳥形が発掘され、長崎県壱岐市の原の辻遺跡の復元家屋には、今もさお先に鳥形が舞う。
三輪信仰の由来は、古事記のオオモノヌシとタマヨリビメの婚姻神話が基本だ。求婚してきた若者の正体を探ると、残した三つの赤い麻の輪から天孫降臨の一族貴人と判明―とある。古事記は荒唐無稽の神話だけれども、天皇ごとに出来事や事件を詳述して史実を反映している日本書紀には三輪氏が登場する。
大和朝廷朝臣の三輪氏は、崇神天皇(第10代)の時代に大神神社の宮司として活躍。持統天皇(第41代)の治世では、18人の重臣の1人として内外政策に関与している。三輪高市麻呂(たけちまろ)は、伊勢参拝を予定した天皇に「農繁期に行くのは断固反対」といさめて辞職したと記す。
「氏子や市内に『三輪さん』はいるが、三輪氏がどんな経緯で信州に定着したかは分からない」と美和神社顧問の伊倉順治さん。同神社は撤去した鳥居の古材で作るお守りを、氏子に配る計画だ。4本の柱があるので盤石で不倒―と、ご利益を求めて早くも希望が殺到。関係者は「数が足りない」と苦渋している。
(2018年9月29日掲載)
写真上=真新しい姿になった美和神社三ツ鳥居
写真左=横一列に組み合わさっている三ツ鳥居