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216 門前町の商い ~「そば亭 油や」で見る歴史

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 「長野市は日本一の門前町。広辞苑にちゃんと書いてあります」

 長野商工会議所幹部の自慢のせりふだ。確かに、「もんぜんまち=善光寺における長野の類」と記されている。書いてはないが、日本一と自慢してもいいだろう。では、門前町はいつ頃から発展したか。はっきりした史料はない。

 歴史研究者は「朝廷に献納された麻布の荷札(木簡)などから、麻や麻布の生産が盛んで大いにもうけた豪族が、畿内や中央の文化を招き入れた。その一つが仏教と仏像で、私宅に飾り、権威と財力を自慢し、領民に御利益を宣伝したのではないか」と解説する。

 「国中の老幼貴賤が千里を遠しとせず参詣し、門前市をなし...」。室町時代、京都南禅寺の高僧が、善光寺をこうほめたたえた記述が残る。

 今日、JR長野駅善光寺口(西口)からスクランブル交差点を渡った所にあるビル1階に、「そば亭 油や」の看板とのれんがかかる。いぶかる人が少なくないであろう「なぜ、そば店が『油や』なのか」をたどると、善光寺門前の歴史が見えてくる。

 「手前どもは、江戸から明治時代まで、大門近くで菜種油を商っており、駅前のここは分家に出た店なのです」と、油やを経営する「アブラヤ」社長の北村文男さんが話してくれた。

 郷土史家によると、もともと門前町の商店は、郊外農家の2、3男が奉公する格好の場だった。江戸時代、奉公人は参拝者向けにわらじや草履を編む内職に励んだ。いろりの明かりでは不足で、燈油(ともしびあぶら)が売れたのだという。

 だが、時代は下り、灯明やあんどんの明かりは、ランプや電灯に取って代わられる。町の辻々にあった油屋さんは、店じまいや転身を余儀なくされた。

 「商売の種は減ったのだが、油粕(かす)を肥料として商うなど、工夫を重ねた」と北村さん。油やは、駅前という地の利を生かして、そば、飲食、土産物販売へ、業態変更に成功した次第だ。

 ちなみに、戦後、油屋がにぎわった時期がある。頭髪料ポマードの人気だ。北国街道ぞいの吉田にある実家が油屋だったという女性は「男性が頭をテカテカにするリーゼント型が流行し、ポマードは植物油の調合でもできることから、大いに繁盛した」と振り返る。

 門前町の駅前への広がりは、芝居で言えば第一幕。「戸隠や飯綱出身のそば職人が相次いで出店し、製粉業者もアンテナ店で勝負をし、飲食チェーンも進出へ虎視眈々(たんたん)」と、そば通を自認する高齢者が言う。そば店の激戦は、門前の新たな舞台を見せてくれるようでもある。
(2018年10月27日掲載)

写真=長野駅前のビルに店を構える「そば亭 油や」
 
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