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217 丹波島宿 ~屋号や区割りに往時の姿が

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 長野市街地から南へ、犀川に架かる丹波島橋(550メートル)を渡った西側の住宅街の一角に、北国街道の丹波島宿が東西660メートルに整然と広がる。幅7メートルほどの道路両側は、こぎれいな住宅街だ。さらに進むと、街区のほぼ中央に本陣と問屋(といや)、復元された高札場。タイムスリップしたかのような感がある。

 江戸時代初め、1611(慶長16)年に開設された丹波島宿の往時の区割りが、ほぼ維持されている。間口は8間(14・5メートル)、奥行き22間(40メートル)余の「うなぎの寝床」。各家の広さの平均は180坪、600平方メートル近くに及ぶ。徳川幕府の統治、交通の実際を見るには、格好の場所だ。

 川中島合戦の後、犀川近辺の農民は、周辺の山地に避難し、平地の宿場造りは難航した。丹波島宿は、「伝馬宿」として、ゼロから人工的に整備された。

 徳川幕府が全国を支配する柱は江戸の防衛であり、大名の参勤交代と、架橋の禁止が具体的方策だった。信州では中山道と北国街道に、それが徹底された。金沢と江戸の間を12泊13日の旅程とする加賀藩の行列にとって、急流の黒部川越え(富山県)、断崖絶壁の「親不知子不知」(新潟県)と並ぶ難所が、丹波島での犀川越えだった。

 本陣、問屋の近くで「三度屋」の看板を保存する鈴木和代さんの家を訪ねた。「月に金沢へ3度、江戸へ3度、飛脚を出したのが屋号の由来。京都からの宮様一行も宿泊した」と和代さん。膨大な古文書は市立博物館に委ねたという。家の裏には宿場遺構が残り、書院造りの座敷と京都風の中庭、裏庭が風情を醸し出す。

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 「丹波島の渡しは、年平均60日も川止めになった」と地元の郷土史家、長谷部好一さん。北アルプスの雪解け水を運ぶ犀川と裾花川の合流地である丹波島は、いつも川底になってしまうような過酷な地勢。人手で造る堤防は木っ端のようであったろう。宿場の洪水との闘いは半端ない。その自負は今日でも住民の間に見て取れる。

 町の西側にある於佐加(おさか)神社には、金毘羅さんから養蚕神社まで産土(うぶすな)神がそろい、文化や信仰が伝わってきた様子がうかがえる。県内の宿場景観では、海野宿(東御市)、郷原宿(塩尻市)、奈良井宿(同)、妻籠宿(南木曽町)などがよく知られた所だが、丹波島宿もかつての様子を想像すれば、すごく面白い。

 開宿から400年余、文化遺産研究のイベントや祭りが盛大に行われている。通りがかりの見学者だけでなく、グループでわざわざ足を運ぶ好事家が増えている。
(2018年11月24日掲載)


写真左=復元されている丹波島宿の高札場
写真上=鈴木さんが保存している「三度屋」の看板
 
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