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05 バンドを結成 ~ダンスホールで演奏 「一人前に」と銀座へ

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 理容師の免許を1949年に取得し、長野地方裁判所の理容師として働きながら始めた進駐軍パーティーでのバンド活動は、長くは続けませんでした。というのは、たくさんのギターコードを覚え、人前で演奏し、ジャズの魅力にもひかれ、自分のバンドを持ちたくなったからです。

 荒井君がビブラフォンを担当し、新たなメンバーを探し、小林さんがベースギターとして加わったのが初期メンバーです。その後、クラリネットの今井さんが、さらにリズムギターの湯本さんにドラムの中谷さん、山岸さんも入り、ジャズやラテンを中心としたスイングバンド的なものができ上がりました。

楽しく盛り上がる

 長野市内には3つのダンスホールがあり、そのうちの一つ、善光寺の近くにあった「ノーブルダンスホール」がバンドの活動拠点になりました。平日は皆、仕事をしていたので、週末だけ、ダンスホールに通うというスケジュール。練習はせず、いつもぶっつけ本番でした。土日曜はいつも若い人たちでいっぱいで、緊張感よりも演奏する楽しさで気持ちが充実していました。

 ビートとコードで合わせて何とか演奏していましたが、当然誰かが間違えてしまいます。そんな時も、メンバー皆が笑って済ますくらい、楽しんでいました。ですから、ホールで踊っている人たちも、楽しそうに熱く盛り上がっていました。

 そんな雰囲気に乗せられたのか、個性的な人も現れました。特に印象的だったのは、権堂にあった中国料理店の店主です。ジルバの踊りがうまく、私たちが繰り出すさまざまな音楽に合わせて踊るのです。それが独特で、演奏する方も拍手をしながらリズムを取り、ホールの熱気も最高潮に達していました。

 善光寺近くにあった蔵春閣でもたびたびダンスパーティーが開かれていたことを覚えています。

 自分たちで立ち上げたバンドで楽しく演奏して、2年も過ぎたころです。「一人前のバンドマンになりたい」という向上心が、再びふつふつと沸き起こり、腕を磨きたくなったのです。1953年、東京・銀座を目指しました。

 銀座には、荒井君のいとこで、日本コロムビア所属の作曲家河村利夫さんがクラブに出演されていたからです。河村さんはアルトサックスの名奏者で「真夜中のギター」を作曲した人です。

もらったはがきに涙

 河村さんに紹介していただいたのが、銀座の「クラブ耕一路」のバンドでした。憧れの東京でしたから、がむしゃらにギターを弾きまくっていました。ある日、長野に残してきたバンドのメンバーから「みんな頑張っているから、長野は任せろ。おまえも頑張れよ」というはがきをもらいました。私も20歳を過ぎたばかりの若造ですから、涙があふれ、止まりませんでした。

 そんなつらくとも楽しい日々を過ごして3カ月がたったころ、目の前に大きな壁が立ちはだかりました。クラブの経営者がブラジルに移住することになり、突然閉店してしまったのです。終戦後、ブラジルとの国交を回復し、53年に日本からの移民受け入れが再開されたころでもあったので、私たちはそのあおりを受けてしまったのかもしれません。
(聞き書き・塚田裕文)
(2018年12月8日掲載)



写真=長野市の「ノーブルダンスホール」で演奏(中央が私)