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05 対象を詩として写生して

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 木々が葉を落とし、いかにも冬らしい季節へと移り変わってきました。この季節に私は必ず、次の句が胸の中に浮かびます。

遠山に日の当りたる枯野かな   高浜虚子

 小学校4年生の頃でした。国語の副読本に川柳が解説されており、「元気よく歩けば抜けた廊下かな」とあって、なんて面白いんだろうと思いました。

 その後に、虚子の掲句を知ります。子ども時代を飯田市で過ごしたので、この「遠山に日の当りたる枯野」という景色は少し郊外へ出れば広がっています。景色を絵に描いたともいえると同時に、この句を読むと、心のどこかにぽっと灯のともるような温かさを感じました。五・七・五で、形は川柳と同じだけれど、内容は全く違うな、「詩」だな、と子ども心にも感じました。その時の感じは、年を経ても、今も同じです。

 虚子は俳句雑誌「ホトトギス」の主宰として多くの弟子を育てます。その際に「客観写生」をスローガンとしました。俳句は短く、初心者が込み入った思想を盛り込もうとしても、失敗することは多いでしょう。そこで、一本の木や一筋の草など、目の前の対象の姿を客観的に写生すれば十分に句ができると指導したわけです。

 虚子の弟子の高野素十は「甘草の芽のとびとびのひとならび」といった句を発表しました。これらに対して、「面白くない」「ただごとだ」「トリビアリズムだ」と言った批判も起こりました。

 しかし、枯野の句は確かな「詩」として、私の心を動かします。作者が景色の中で何か一点に目を止めて、一瞬「あっ、これは...」と心の動いた対象を一句にまとめれば、その思いは読者にも伝わるものだと、私は感じています。
(2018年12月8日掲載)