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06 旅回り ~一流歌手に帯同する 優越感に浸って演奏

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 一人前のバンドマンになりたくて、1953年に上京。わずか3カ月余りで、紹介されたクラブが閉店し、夢が閉ざされたと思いました。しかし、思いもよらない一言が私を救ってくれました。

 そのクラブには2つのバンドが所属していて、私たちはコンボジャズを主に演奏し、もう一つはタンゴのバンドでした。そのバンドマスターが、バイオリンの大家で、作曲家でもある清水保雄さんの弟さんでした。清水さんの作品には「湯島の白梅」「勘太郎月夜唄」「誰か夢なき」などがあります。

 「店が終わってしまうので、しばらくの間、『ビーター』をやろうと思っているのだけれど、丸山君はどうだね」と、弟さんから言われたのです。ビーターというのは、業界用語で旅回りのことです。

関東から青森まで

 このお誘いに、ありがたく即オーケーの返事をしました。バンド名は清水さんが付けた「テイチクオーケストラ」。メンバーは、東京駅に集合するのですが、当日都合のつく人だけだったので、普通は6、7人、多い時で10人くらいでした。当時の東京駅は、楽器を手にしたバンドマンを目指す人が多く集まる場所でもあったので、「今日はトランペット奏者がいないな」となると、すぐにピンチヒッターを見つけられるのです。

 静岡までの関東を中心に、時には青森県八戸まで出掛けました。このビーターのステージは主に歌謡曲だったので、出演される歌手の方に帯同しました。ディック・ミネさんをはじめ、林伊佐緒さん、菊池章子さん、小唄勝太郎さん、音丸さんといった一流の方々でしたから、乗る車両も私たちの3等車とは違い、高級な1等車でした。

 ビーターも、一流の歌手の背中越しに演奏する優越感に浸れるなど、楽しいものでした。1回の演奏旅行の手当は1000円でした。ラーメンが一杯35円くらいだったので、1000円という金額には満足していました。

 ただ、一番つらかったのが、当時、住んでいた中目黒のアパートから、10キロ近い重さのアンプとギターを担いで、東京駅のホームまで移動することでした。特に、東京駅のホームまでの長い階段は、そのたびに上り下りしなくてはいけません。小柄な私にとって、この重さと距離が、日がたつにつれて苦痛に感じるようになりました。

荒井注さんと出会う

 半年が過ぎたころ、辞めることを決めました。ただ、ここまでつながってきたバンド仲間はありがたく、情報交換をする中で、「新宿の角筈(つのはず)に新しいクラブができたらしい」と聞きました。バンドメンバーも求めているはずだと、早速出掛けました。現在の西新宿辺りにあったクラブで、すぐに行動したのが良かったのか、小さなクラブでしたが、新たな演奏場所を見つけられ、ほっとしました。

 バンドの構成は、ギターの私のほかに、アコーディオン、ドラムというトリオでした。2人ともテクニックがありましたが、ドラムを担当する人が、たたく時はすごく気合が入っているのに、普段は面白くて、私も性が合って仲良くなりました。彼の名前は荒井安雄君といって、後にザ・ドリフターズのメンバーとして、一世を風靡(ふうび)した荒井注さんでした。
(聞き書き・塚田裕文)
(2018年12月15日掲載)


写真=上京前後に使っていた自筆の楽譜とアンプ