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07 荒井注さん ~気が合い下宿で遊ぶ 音楽論や一緒に食事

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 一流のジャズバンドマンを目指して上京し、銀座のクラブで第一歩を踏み出したのが1953年。それから1年の間に、旅回りのバンドに参加して、一流歌手の皆さんの演奏をさせていただいた後、新宿に新しくできたクラブのバンドの一員になるなど、さまざまな経験をしました。

 そして、その新宿のクラブ「シロー」で出会ったのが、後のザ・ドリフターズの一員、荒井注(本名・荒井安雄)君でした。彼とはなぜか気が合って、荒井君はよく私の下宿先に遊びに来てくれました。

 東横線のガード下にあった下宿は、中目黒駅に近くて便利だったのですが、電車が通過する音の騒々しさに慣れるまで、だいぶ悩まされました。

皆から好かれる

 食事は、主に外食で済ませていました。当時はファミリーレストランやファストフードの店があるわけでもありません。近所に「外食食堂」という食堂があって、役所などでも販売していた外食券を何枚かまとめて購入して、食べに出掛けていました。

 下宿の一間だけの小さい部屋で、荒井君と音楽論やたわいもない話をし、時間が過ぎるのを忘れるくらい盛り上がっていました。おなかがすいた時は、一緒に外食券を手にして卵丼やラーメンなどを食べました。

 荒井君はよく、クラブに女性を連れてきていました。とはいっても、店の入り口まででしたので、仲間内では、彼女を「ちょうちん」と呼んでいました。明かりを照らす案内役という意味です。そのくらい、荒井君は皆から好かれていました。

 また、日頃のしぐさが、インテリを意識したオリジナリティーに富んでいました。その頃からコメディアンの要素を持ち合わせていたのかもしれません。

 メンバーには、必ず変わった人がいます。例えば、いろいろな楽器を演奏できる器用さはあるけれど、全てが少しずつ中途半端で、「C調(調子いい人)」と呼ばれるタイプです。控室では場を盛り上げてくれるので、貴重な存在でした。そういった意味では、荒井君は、皆に気を遣ってくれていたのかもしれません。

 1年近く、荒井君と一緒に演奏できたことは大変うれしくて、感慨深いものがあります。というのも、クラブ「シロー」を最後に、私は東京での武者修行を終えたからです。

再会できずに逝く

 「東京で2、3年勉強したら、故郷に帰って実家の理容室を継ごう」という長男としての使命感がありました。その部分はぶれないように、当初から決めていました。55年に帰郷すると、両親は「よく帰ってくれた」と、もろ手を挙げて喜んでくれたので、ほっとしました。

 ギターに替えて、再び理容はさみを手にすることになりました。仕事をしていても、ふと、荒井君にお会いしたいなと思う時もあり、一度も連絡を取っていなかったので、心配でもありました。

 しかし、ある日、テレビを見てびっくりしました。荒井安雄君がザ・ドリフターズのメンバーとして「8時だよ!全員集合」に出演していたのです。彼の活躍は周知の通りです。

 ただ、再会できずに2000年に彼は逝ってしまいました。今でも本当に残念でたまりません。
(聞き書き・塚田裕文)
(2018年12月22日掲載)


写真=私の「理髪師免許證」と使っていた理容はさみ