
長野市立博物館(小島田町・川中島古戦場史跡公園内)に、太平洋戦争で旧日本軍軍用機の下に取り付けられた木製の「落下増槽(ぞうそう)」が展示されている。長さ4メートル、大人が両手を広げて抱えても余るほどの円筒形。内部の仕切りも確認できる。航続距離を延ばすための燃料タンクで、使い切ると、切り離された。今年、高橋製作所(中御所)所有の建物で見つかり、寄贈された。
1945年8月15日の敗戦から、同年11月に進駐軍の長野軍政部が置かれるまで、長野市内の役所などでは、戦争に関する記録の破棄と焼却に追われた。戦争責任を問われる軍需関係の工場も同様で、生産機械や製品部品も焼くか、土の中に埋められたはずだった。
元県庁職員は「犀川と千曲川の土手は数日間、書類を焼却する煙一色だった」と、当時を振り返る。
それから70年余を経て、製作途中の落下増槽の現物2基が見つかることとなった。高橋製作所は、前身の長野市木工家具建具工業小組合が陸軍造兵廠(しょう)の下請け、海軍工廠の指定工場で、44年には高橋航空機製作所となった。落下増槽が見つかったのは、工場だった建物だ。
「一見すると、巨大戦艦や空母を攻撃するでかい魚雷かと思った」と、同博物館学芸員の原田和彦さん。海軍艦上偵察機「彩雲」に取り付ける落下増槽とみられ、外板はベニヤ板を張り、防水材を塗ったらしい―という。
落下増槽をどう使ったか。戦時中にパイロットだった男性から話を聞く機会があった。男性は近年まで三輪地区に住んでいた。
1944年、サイパンとテニアンが陥落。京浜・阪神地帯へのB29の空爆が激化した。日本軍にとって、サイパンのB29爆撃機の数を把握することが重要になっていた。「本土からサイパンまで2400キロ。毎日偵察機を飛ばし、滑走路のB29を数え、打電報告せよ」
本拠になったのが千葉県柏の飛行場。39年、首都防衛のために急造された。
元パイロットによると、柏には全国から精鋭が集められた。偵察機は、操縦士と通信士が一組となり、落下増槽を機体に抱えて、夜明けに離陸。5、6時間かけてサイパン上空へ。米戦闘機、爆撃機を数えて、直ちに打電して、落下増槽を切り離して、急いで引き返す。それでも米戦闘機の待ち伏せにも何回か遭遇したという。帰途は夕刻になり、房総半島や富士山を見て、ようやくわれに返る思いだった。
戦後、この元パイロットの男性は、会社役員を務めるなどしながら、山登りに没頭。県内の峰々を細密に描いた。「サイパンからの帰途に眺めた母国の山並みに似ていた」と話してくれた。「遺言」という分厚い山並みのスケッチを残して、昨秋旅立った。
(2018年12月22日掲載)
写真=長野市立博物館に展示されている落下増槽