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46 蚕室物語 5 ~花も嵐も たくましく乗り越えつつ

 
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雨に濡れ
 桑摘かへり
 衣干す
 焚き火の煙
 土間を這(は)ひゆく

     倉沢節夫

    ◇

 農家にとって養蚕は、現金収入の貴重な手段だった。しかも当たり外れが大きい。大当たりでたくさん取れた繭の価格も、景気次第で激しく上下する。

 きわどさを抱えて農家の屋根の下では、悲喜こもごも、明暗さまざまな時を重ねた。冒頭の一首には、雨の日に蚕飼いにいそしむ農民の、けなげな姿が映し出されている。

 ずぶぬれになりながら桑を摘み、家に帰ってきた。たき火の傍らで衣類を干して乾かす。その煙が土間をはって流れていく。

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 この歌を掲載した蚕種協同組合連合会の「上伊那社60年史」によると、作者の倉沢節夫は下伊那郡高森町下市田で農業の傍ら、歌人として活躍した。1969(昭和44)年出版の歌集「土は還る」が、出典となっている。

 卵からふ化した蚕の赤ちゃんの飼育が新たに始まるたび、「当たれよ」と神様に手を合わせる妻。蚕飼いの前途を嘆きつつ畑で桑を摘む夫婦の切なさ...。そんな養蚕農家の日常、哀歓をしみじみありのまま歌い上げた。

 〈焚き火の煙 土間をひゆく〉。こうした描写の端々に、ハッとするほど往時の家の、火と煙との深い関係を思い知らされる。

 ことに養蚕の場合は「身上(しんしょう=財産)をつくるもつぶすも蚕」とされたほどだ。一家の暮らし、先行きの明暗が懸かっている。家を建てるにも飼育する際の都合を優先し、農村民家の造り方に大きな影響を与えていく。

 例えば2階を蚕室とし、暖房用に下のいろりで火をたく。天井板にすき間を設け、障子を張りめぐらせた2階に熱気が伝わるように工夫を凝らした。

 火を用いることに伴う思わぬ事故も少なくない。蚕が生まれて間もないころは、まだ寒さにも弱く、室内の温度を一定に保たなくてはならない。掘ったいろりにたっぷり炭火をおこし、灰をかぶせて板で覆う。開け閉めして温度の調整である。

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 米国発の世界恐慌が、日本の農村を不況のどん底にあえがせていた1931(昭和6)年ごろだった。旧上水内郡小田切村(現長野市)の農家の主婦がいろりの周りで作業中、板を踏み外し中に落ちた。両足に大やけどである。

 平成になり、その主婦の二女が自費出版した自分史を通じて、たまたま知ったことだ。蚕が育つ蚕室一軒一軒、時々刻々、さまざまな物語が生まれ、そして消えていった。

 人と蚕が苦楽を乗り越え、共に生きる場としたのが蚕室だ。たとえ逆境であろうと乗り越えてみせる―。屋根の上の色とりどりの煙出しは、そんな心意気を今なお誇っている。
(2018年12月15日掲載)



写真上=東側に門を構えて屋根の上のやぐらが映える(長野市中条=酒井隆一さん撮影)

写真下=昔の農家のいろり(上高井郡高山村・歴史民俗資料館)
 
蚕糸王国うた紀行