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2019年1月1日 特集 蚕業革命の足音が聞こえる ~蚕の初夢 糸の正夢

睦じう 
  込合って居る
    蚕かな
      井上井月

 今ではめったに見掛けない蚕ではある。かつては生糸の輸出によって国を支えた。原料の繭を作り、農家の暮らしを助けた。
 近ごろ「蚕業革命」なる言葉が使われ始めている。蚕の体が秘める豊かな可能性に、新たな産業への展望を期待してのことだ。

 天と虫の2文字を組み合わせて蚕。その力を借り、もしかすると、多くの人の苦しむ膝の痛みが、解消に向かうかもしれない。女性の美肌への願望が、満たされるかもしれない。蚕業革命の行方に見え始めた明るい未来の一端だ。

 蚕は幼虫のとき4回脱皮し、脱皮の直前には頭をもたげてじっと動かない。眠っているかに見える。きっと素晴らしい夢を見ているのではないだろうか。

 とても仲の良い生き物でもある。決してけんかをしない。江戸末期から明治初期、伊那谷を放浪した俳人井上井月は〈睦じう込合って〉と詠んだ。この性質は、蚕業革命に必要な実験を重ねる上でもありがたい。

    ◇

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 岡谷蚕糸博物館長高林千幸、信大繊維学部教授玉田靖の両氏に蚕の初夢、糸の正夢へ案内していただきます。

蚕糸に新たな未来が開かれる ~岡谷蚕糸博物館長 高林千幸さんに聞く

 ―科学者の立場で、シルクの未来をどう見ますか。

 高林 1969(昭和44)年、大学に進んだころ、既に蚕糸業は下り坂でした。精密工業が急成長の時代で、将来的に心配ではありました。

 でも、シルクが駄目で蚕糸業が衰退したのではない。肌触り、光沢、染色性...。相変わらずシルクは素晴らしい。世界では、絹の消費量はほぼキープしています。蚕糸業も中国、インド、ベトナム、ウズベキスタンなどで今も健在です。

 ―蚕そのものがすごいのですか。

 高林 人間の手で育てるようになって中国で7千年、日本でも2千年。桑の葉があっても、蚕は自分で木に登って食べることができません。成虫の蛾(が)は羽があるのに飛べません。すべて人頼りです。同じ仲間で野生のクワコは、木にも登るし、空を飛び回りますよ。

 ―もともとは同じなのに?

 高林 大きな違いです。昔の人はクワコの繭から質のいい糸が取れることを知り、家の中で飼うことにします。改良を重ね、現在の家蚕に育て上げました。

 ―悠久の歴史の産物ですね。

 高林 人間がやってきたのは、いろんな品種の掛け合わせです。これほどまでにしたのは、神の力としか言いようがありません。まさしく天の虫です。

 ―いま蚕の遺伝子組み換えが注目の的です。

 高林 私も在籍した独立行政法人・農業生物資源研究所が、2001年に世界に先駆け、開発にこぎつけました。以来18年、急速、広範に展開されています。

 蚕は1カ月足らずで体重が1万倍にもなります。効率的に目指すものを生み出す昆虫工場です。期待される分野が広がり、医療や医薬品開発への取り組みも盛んです。

 ―衣料から医療へ、大転換ですね。

 高林 シルク自体も様相を一変しています。クラゲの遺伝子を蚕の卵に組み入れ、緑色に輝く繭ができました。その繭から糸を紡ぐ高度の技を、この博物館に併設の宮坂製糸所が成功させました。
 クモの糸の強さを加えたクモ糸シルク、超極細シルク...。もっともっと夢は広がっていきますよ。
(2019年1月1日掲載)


 〔たかばやし・ちゆき〕
 岡谷市出身、68歳。東京農工大学工学部製糸学科卒。農業生物資源研究所生活資材開発ユニット長。現岡谷蚕糸博物館館長。日本シルク学会会長。農学博士。

写真=蛍光シルクを枠に巻き取るスタッフと話す高林館長(左)
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 信州大学の繊維学部が、近ごろ活気づいている―。そう耳にし、上田市にあるキャンパスを訪ねた。

 繊維産業の斜陽化で、ひところは廃止の危機にも直面した。比べて大きく様変わりである。今やシルクサイエンス最前線の拠点を誇っている。向かった先はそんな一つ、応用生物科学科玉田靖教授の研究室だ。スポーツマンを思わせる健やかな笑顔が迎えてくれる。

 「ちょうど良かった。よそで展示していたのが、戻ってきたばかりですよ」。透明な袋に入った手のひらサイズの物を大切そうに、テーブルに並べていく。

 蚕の繭から紡いだシルク。そのシルクの本体であるフィブロインタンパク質を、まず水溶液にし、そこからさまざまに加工する。平らな板状のフィルム、微細なすき間をもつスポンジ。パウダーはうどん粉のようにも見えるし、樹脂は固くて10円玉によく似ている。

 シルクの優れているところは、人の体になじみやすい、つまり安全性が高い。しかも、人体に優しい水を使って加工できる。分かりやすい玉田教授の口調に力がこもる。

 専門の研究はバイオマテリアル。医学や歯学の分野で、移植を目的とする生きた材料・素材の開発だ。玉田教授はシルクに着目し、京都大学、東邦大学と共同で再生医療への活用に打ち込んできた。

 「蚕の体の中で合成された極めて優れ者のタンパク質で、シルクはできている。2500年前には外科用の縫合糸として使われ、今日まで続いているのは安全だからこそだ」

 皮膚や血管、角膜、骨など再生への可能性は幅広い。特に膝や股関節の働きに重要な関節軟骨の再生は、実現に近づいているという。

 膝とか腰の痛みが思い浮かび、身を乗り出して耳を傾ける。

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 まず、シルクを加工したスポンジに軟骨細胞を埋め込み、軟骨の擦り減った関節の骨にはり付ける。すると、欠けたところに軟骨組織の再生が始まる。再生が終わった段階でスポンジは取り出す。

 ざっとこんなイメージだ。

 京都大学の山中伸弥教授がノーベル医学生理学賞に輝き、脚光を浴びる再生医療だ。けれども細胞そのものと同時に、細胞を移植する際の足場の役割を担う材料がカギを握る。玉田教授はシルクから生じるスポンジに狙いを定めた。

 ウサギを使った「はって治す軟骨治療」の実験では6週間後、全面に組織が再生したことを確認できたという。

 膝の軟骨が擦り減って激しく痛む変形性膝関節症の患者は、国内で840万人、潜在患者は2400万人と推定されている。

 高齢化社会の難題解決一つとっても、蚕の出番を迎えている。
 
蚕糸王国うた紀行