
にぎわう善光寺の参道で、特に敷石に気を遣いながら歩く参拝者は、そういないだろう。だが、かつては砂利と泥だらけで、草履やげたの参拝者は、大層難儀した。
境内入り口から三門(山門)まで397メートルの敷石は、江戸中橋(現在の東京・日本橋)の大店(おおだな)のあるじ、大竹屋平兵衛が300両を寄進して、1714(正徳4)年にできた。現在の善光寺本堂ができてから8年目のことだ。山門から本堂前の敷石は、13年に腰村西光寺住職欣誉単求の寄進による。「善光寺参道(敷石)」は、市の記念物に指定されている。
当時、敷石があったのは、門から玄関までの短い通路か、寺社や大きな家の三和土(たたき)くらいで、これほど長い参道を石畳にするというのは空前の企てだ。平兵衛の寄進話を大勧進に取り次いだ向仏坊(こうぶつぼう)の住職も半信半疑だった。
敷石の標準的な大きさは、長さ70~80センチ、幅は42~43センチ。大人2人でやっと持ち運べる重さだ。大勧進の文書によれば、寄進された金の保管や支出管理に万全の態勢が敷かれた。
石材は、境内に多数ある石灯籠と同じく、本堂の西側にそびえる郷路山(ごうろやま)から切り出した安山岩。火山噴出溶岩が固まった石で、墓石や五輪塔に最適だと、盛んに利用された。ちなみに、最近、本堂東側を巡る石畳の歩道を補修した際には、由緒ある安山岩は払底していて調達できなかったという。
参道の敷石をめぐっては、興味深いさまざまなエピソードがある。一つは、全国的にも珍しい大量の敷石の数は何枚か―だ。
7777枚とされているが、郷土史家の小林計一郎さんが長野高専教員時代に、生徒たちを集めて、一枚ずつ紙片を貼りつけながら数えてみたところ、6千枚台だったと伝えられている。だが、それも確認されてはいない。
また、大金を寄進した大竹屋平兵衛とは、どういう人物なのか。
伊勢出身で、江戸で成功を収めた平兵衛は、放蕩息子を勘当。大竹屋に盗みに入った息子を、息子とは気付かずに平兵衛が殺してしまった。息子の菩提(ぼだい)を弔うために善光寺を訪れた際、足元の悪さに難儀している参拝者を見て、敷石を寄進した―。そんな伝承も残る。
平兵衛に関する古い記録を保管している向仏坊住職の若麻績宗亮(ひろあき)さんに聞くと、「信心深い平兵衛は、後に出家して功徳を積み、1726年に亡くなった。善光寺の大切な諸行事では、常に格別な待遇だった」という。
墓は、本堂東の松林の一角「一山(いっさん)墓地」と呼ばれる善光寺関係者の聖域にある。墓石は頭部が丸い卵塔(らんとう)という形で僧籍を表している。台座を含めても大人の腰辺りの高さ。「性誉一法道専大徳」と彫られた碑文は、だいぶ風化している。
(2019年1月26日掲載)
写真=敷き詰められた参道の敷石。途中にある「駒返り橋」(手前)も大竹屋平兵衛の寄進と伝えられる