
千曲市稲荷山は、北国西街道(善光寺街道)沿いの商家町が2014年、国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)になった。大きな商家や土蔵、小路や水路が残る歴史の町だ。
JR篠ノ井線の稲荷山駅は、長野市篠ノ井塩崎にあり、本来の稲荷山からは遠い。しなの鉄道屋代駅から出ている1日数本の市営循環バスに乗るのがいい。重伝建の町は、中心に鍵の手がある南北850メートルの通りに沿って延びている。
北寄りの荒町に、市が運営する「稲荷山宿・蔵し館」がある。築150年の商家の建物を使った資料館で、町の歴史や文化に関する展示がある。
稲荷山の町は、武田氏滅亡後に北信濃を支配した上杉景勝が、稲荷山城と城下町を築いたのに始まる。松本を拠点に北信への進出をうかがっていた小笠原貞慶(さだよし)の進攻に備え、支配地南端の押さえとして築城した。「稲荷山城」の名は、築城時に縄張りの中に白ギツネが飛び込んできたから―と伝わる。

城域は今の稲荷山の町のど真ん中。その後町が発展したせいか、遺構はほとんど残っていない。住宅街の一角に「城址」の石碑と井戸を残すのみだ。ただ、「馬出し小路」など小路の名が城の名残を伝えている。
江戸時代には宿場町として発展した。北国西街道は、中山(なかせん)道の洗馬(塩尻市)から北上し、篠ノ井で北国街道と合流する。稲荷山宿は、南の麻績宿との間に難所の猿ケ馬場峠を控えていたことや、善光寺を目指す巡礼者の前日の宿としてちょうどいい距離だったことから、宿泊の旅人でにぎわったという。
1847年の善光寺地震では、御開帳中の善光寺への旅人を含めおよそ千人が亡くなり、町のほとんどの建物が焼けた。地震後に立て直された町は、明治10~30年代に商業の町として、全盛期を迎える。

町周辺で栽培が盛んだった綿花や綿糸を扱う問屋を中心に、薬や菓子などの店110軒が軒を連ね、「稲荷山銀行」(後に八十二銀行前身の「六十三銀行」に)も設立された。本八日町の裏通り「たまち蔵道」を歩くと、大きな土蔵がびっしり並び、商家の繁栄ぶりを伝えている。上八日町には六十三銀行の本店だった建物も残る。
「蔵道」近くの「ふる里漫画館」は、稲荷山出身の漫画家、近藤日出造さん(1908~79年)の原画を展示。近藤さんは、読売新聞などで40年以上、風刺のきいた政治漫画を描き続けた。原画を通して、戦後の政治史をたどることができた。
(竹内大介)
(2019年1月12日掲載)
写真上=土蔵が立ち並ぶ「たまち蔵道」
写真左=やぐら台の場所とされる所にある「稲荷山城址」の石碑