
向こう50年までの間に、市が再整備を打ち出している長野市城山公園。善光寺東側の高台を含めたこの一帯は、古来「横山」と呼ばれる場所だ。中央から派遣された国衙(こくが)が支配する城とし、対立する豪族の村上一族が攻めたり、戦国時代に上杉氏が進出して陣を構えて城を整備拡張したり。横山城跡でもある。
土地の高低差や平らになった部分のある形状から、本丸、二の丸、三の丸の跡が、わずかに見て取れる。
本丸跡と思われる場所にあるのが、健御名方富命彦神別(たけみなかたとみのみことひこかみわけ)神社だ。水内大社、城山県社とも呼ばれている。境内の長い石段を上り、さらに一段と高い頂点に社殿を構えている。
ルーツは諏訪大社と考えられる。691年、朝廷は使者を遣わせて、水内神を祭らせた。それがこの神社で、「延喜式」に「水内郡唯一の大社」と記されている。「彦神」は諏訪大社の男神、「別」は分神の意味だ。
「長野市誌」の8巻旧市町村史編に興味深い記述がある。
「古代の仏教寺院は国造(くにのみやつこ)などの有力豪族によって建立された...水内郡は国造の金刺氏が開拓していた。善光寺は金刺氏が建てたのであろう」

金刺氏は諏訪大社の神官で、飛鳥時代から天皇の近くに仕えた。諏訪の金刺氏は、北信濃を領地とする一族に仏教を勧め、仏像や経典の教えを授けた。健御名方富命彦神別神社の神主も、金刺氏。善光寺も同神社も、金刺氏によるという説には説得力がある。
もともと、健御名方富命は善光寺本堂の裏に祭られていた。それまでの神仏習合から、明治新政府の神仏分離政策で1879(明治12)年に、今の場所に移った。善光寺も同神社も、金刺氏が同じ場所に建てたのではないかという説は納得できる。
健御名方富命彦神別神社と諏訪大社の関係が実感できるのが御柱大祭だ。善光寺周辺の同神社と湯福神社、武井神社、妻科神社の4神社が、7年目ごとに持ち回りで続けている。健御名方富命彦神別神社では1998年、里曳(ひ)き、奉納、建(たて)御柱が行われた。
同神社境内には、松尾芭蕉(1644~94年)の句碑がある。長野市吉田出身の俳人茂呂何丸(もろなにまる)(1761~1837年)が建てたとされる。句は「月影や四門四宗も只一つ」。善光寺を詠んだ。

諏訪大社と善光寺、そして健御名方富命彦神別神社の縁は深い。
(2019年2月23日掲載)
写真上=高台の上にある社殿
写真左=社殿に続く石段
地図=大正初めに作られたパンフレットの復刻を基に作成