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221 象山神社銅像 ~「米百俵」主人公の門下生も

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 今春のお花見は、松代町の象山神社がお薦めだ。昨年11月、絵馬堂の前に、等身大の佐久間象山(1811~64年)を中央に、半円状に7人の銅像、胸像が建てられた。3人のレリーフを埋め込んだ1基もある。

 象山以外の6人は、8代松代藩主の真田幸貫と、象山門下の勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬、小林虎三郎、橋本左内だ。真田幸貫は象山を幕府の海防掛顧問に抜擢した。門下の人物は映画やドラマ、小説などでおなじみだ。

 ほかの5人に比べて知名度が低く、信州人にはあまりなじみがなく、異彩を放つのは、小林虎三郎だ。2001年、初めての国会所信表明演説で小泉純一郎首相が語った「米百俵」の逸話の主人公と言えば、思い出す人も多いだろう。

 戊辰戦争(1868~69年)で官軍に攻められ敗北、疲弊した長岡藩(新潟県長岡市)に、支藩の三根山藩(新潟市)から米百俵が見舞いに届いた。藩士たちは「米が食べられる」と期待したが、長岡藩の指導者だった小林虎三郎が米百俵を売り、その金を学校設立に充てたのだった。

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 藩の立て直しには、教育による人材の育成を―という考えだ。小林虎三郎は「米百俵で未来をつくった男」と評される。経済の低迷期にあって、国民に痛みに耐えるよう訴える小泉首相にとっては、格好の逸話だったのではないか。

 1853年6月3日、米ペリー提督率いる艦隊が浦賀沖に現れた。ペリー来航である。江戸にいた象山は、翌日に浦賀に着いた。象山の考えに大きな影響を与えたこの浦賀行きに同行した一人が、小林虎三郎なのだ。

 日本は紆余(うよ)曲折の末、象山の願い通り、開国、近代化に成功。象山の先見性は評価され、昭和に入り、象山神社は1938年に創建された。
 銅像、胸像の建立は、篠ノ井出身でAOKIホールディングス会長、副会長の青木拡憲さん、弟の宝久さん兄弟が奉納した。最初の店舗を開くまで洋服の行商をしていて、松代に通う合間に象山神社を訪れ、「国を思う情熱に感動と感銘を覚えた」と、建立の思いを青木会長は表している。

 同神社参道の左右には、象山詩文の傑作「望岳の賦」と「桜の賦」の石碑がある。富士山と桜に託した象山の思想が読み取れる配置だ。

 1974年、初来日したフォード米大統領は、詩文と和歌を引用し、「世界を見つめる象山」というメッセージを発した。おかげで、「松代の象山」から「世界の象山」に出世した次第である。
(2019年3月23日掲載)

写真上=佐久間象山らの銅像が並ぶ象山神社

写真下=象山の門下生で「米百俵」の逸話を残した小林虎三郎の胸像
 
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