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222 典厩寺 ~「川中島の戦い」につながる

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 武田氏と上杉氏の軍勢による「川中島の戦い」の古跡は、小島田町の川中島古戦場史跡公園が有名だ。もう一つ、篠ノ井杵淵の典厩寺も欠かせない。

 戦いは1561(永禄4)年9月がハイライトだ。武田方の軍師、山本勘助の「キツツキ戦法」を見破った上杉方が、夜陰にまぎれて妻女山を下り、両軍が激突した。

 この時、武田信玄と上杉謙信が軍扇と刀で直接応酬したとされ、その場面を表す銅像が同古戦場史跡公園にあるのはよく知られたところ。典厩寺の境内には、その銅像の原画になった石碑がある。

 この戦いで、武田方の副将、武田典厩信繁と勘助が戦死。後世の解説では、信玄の弟でもあり、守るべき副将の戦死を、失策と自覚した勘助は、敵陣に乱入し、自滅した―となる。

 戦いの詳細は記録類が少なく、手紙や褒賞の手柄から、「前半は上杉優勢。混戦の末、最後は武田の優位に終わった」というのが、大方の歴史研究者の見解だ。典厩は、厩(うまや)の長官で、武田が得意とする騎馬軍団の総大将だが、この戦いでは、夜明けの川霧に右往左往するばかりだったらしい。

 時代は下って、江戸時代。上田から松代に転封された真田家が、武田典厩信繁と川中島の戦いの両軍戦死者の菩提を弔うため、典厩寺を建立したと伝えられる。滅んだ武田家は、真田家の主家に当たる。

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 「明治、大正時代には、陸海軍関係者にとって聖地となり、東郷平八郎ら著名な軍人が参拝。太平洋戦争後は、自衛隊の戦史研究教科書に採用されたので、来訪者が後を絶たない」と、典厩寺住職の大島典弘(てんこう)さん(77)は話す。

 典厩寺へは、川中島古戦場史跡公園の横を通って、長野インター方面へ。千曲川に架かる松代大橋手前の赤川交差点を右折し、数10メートル先を左折して小路に入り、同川堤防を目指すと、土手の下がバス駐車場と境内だ。

 本堂には、武田の「風林火山」と、上杉の「毘(び)...龍(りゅう)」の大旗。日本一大きいとされる「閻魔(えんま)大王像」は、別棟の閻魔堂に鎮座する。閻魔堂は、山門とともに、2018年に国の登録有形文化財になっている。

 1860(万延元)年、松代藩8代藩主、真田幸貫の発願で、戦いの戦死者6千人余の法要が行われた。頼山陽が詠んだ漢詩「鞭声(べんせい)粛々夜(よる)河(かわ)を過(わた)る」は、明治維新を先導した志士たちの心情を訴えて流行した。頼山陽の著作「日本外史」は尊王思想の柱となった。

 寺宝約60点を展示した記念館は、小さいながら充実している。境内には記念碑や記念物がめじろ押し。戦国から近世、近代へ連綿と続く日本人の歴史的心情を検証する格好の場になっている。
(2019年4月20日掲載)

写真上=「川中島の戦い」の戦死者を弔うため建立されたという典厩寺
写真左=閻魔大王像
 
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