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45 群馬県安中市横川 ~歩いてたどる峠越えの歴史

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 かつての信越線横川(安中市)―軽井沢間(通称・横軽)は、66・7‰(パーミル=千メートル進むと標高が66・7メートル高くなる)という国鉄で最も急勾配の区間として知られていた。1997年の新幹線開業で、在来線は廃止。軽井沢と横川は今、1日8便ほどの路線バスがつないでいる。

 碓氷峠の麓である横川の標高は約380メートル。峠を越えた軽井沢は約940メートル。標高差の大きな峠は、いつの時代も難所だった。中山(なかせん)道が整備された江戸時代には、登り口に坂本宿が置かれ、難所を前にした旅人を助けた。

 1893(明治26)年に「アプト式」の鉄道が開業。2本のレールの真ん中に敷いたラックレールを、車体下部の歯車とかみ合わせて急坂を登る。「信濃の国」に「穿(うが)つ隧道(トンネル)二十六」と歌われたトンネルと橋を走った。

 当時の鉄道施設は国の重要文化財になっている。線路敷きは遊歩道「アプトの道」となり、誰でも歩ける。

 歩くと66・7‰の急勾配を実感する。登るとじわじわと息が上がるし、下りでは背中を押される感覚がある。1編成で数百トンある鉄道車両が、よくこの坂を登ったものだ。

 遊歩道のハイライトは碓氷第3橋梁、通称めがね橋。長さ91メートル、200万個のれんがを使った国内最大のれんが造りアーチ橋だ。側面には、50センチほどに切られたラックレールが、断続的に突き出している。電線を渡すのに再利用したのだろうか。

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 遊歩道の起点、横川機関区跡の「碓氷峠鉄道文化むら」では、多くの退役車両を展示し、横軽の歴史を伝えている。目玉は、アプト式の電気機関車ED42形と、その後使われた横軽専用の電気機関車EF63形だ。

 アプト式は遅く、輸送力も小さかったため、1963(昭和38)年に新線に切り替わり、普通の鉄道と同じ粘着運転になった。横軽を通る列車にはEF63形が連結され、電車を強力に押し上げた。

 横川駅と軽井沢駅では、機関車の連結・切り離しで停車時間が長かった。この時間にホームで売られた名物が「峠の釜めし」だ。

 製造販売元の荻野屋は、横川駅前に本店とミニ博物館がある。駅開業時から駅弁を販売していた同社は、58年に益子焼を使った釜めしを発売。翌年に爆発的に売れ出したという。

 ご飯の上に、味のしみた鶏肉やシイタケ、あんずの甘煮などが載る。変わらない味に、在来線時代のホームで販売員が深々とお辞儀をして列車を見送る光景を思い出した。
(竹内大介)
(2019年5月4日掲載)

写真上=遊歩道の一部として歩いて渡れるめがね橋。高さに足がすくむ
写真下=荻野屋本店前の側溝のふたにはラックレールが使われている
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小さな日帰り旅