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224 山本勘助 ~川中島合戦をしのぶ胴合橋

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 戦国時代の「川中島合戦」は、太平の江戸時代になって、庶民の娯楽話としてもてはやされた。浮世絵や講談、芝居のヒーローになったのは、武田信玄の家臣、軍師山本勘助だ。

 勘助は江戸時代初頭に完成した軍学書「甲陽軍鑑」で活躍する。全国を放浪して、数多くの武将に仕えた天才として、川中島合戦では1557(弘治3)年の第3次から登場する。長野市街地の北、善光寺の裏、葛山城に陣を構えた上杉勢を巧妙な戦術で攻め落とした。

 勘助の「築城の縄張り(設計)」、信濃の諏訪氏や村上氏に対する策略や攻撃方法は、武士たちの基本的な素養になった。

 だが、勘助の運命は暗転する。1561(永禄4)年の第4次合戦のこと。「妻女山にたてこもる上杉勢を誘い出して勝負する」という勘助の作戦が採られ、武田勢は「きつつき戦法」に打って出た。

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 対して、武田勢の戦略を見破った上杉勢は、先手を取って下山。濃霧の千曲川を渡る。頼山陽の漢詩「鞭声粛粛夜河を過る」で知られる場面となる。この時、上杉謙信の奇襲を受けた武田信玄の弟信繁は戦死した。

 主人を守れなかった失策を悟った勘助は、わずか200の手勢で敵陣に攻め入ったが、首を取られてしまう。家来たちが取り戻してきた勘助の首と、戦場にあった胴体を合わせ、弔いをしたとされるのが胴合橋(どうあいばし)である。

 今の胴合橋は、長野市街地から松代に向かう松代大橋の手前左側、2軒の大きな店舗の境辺りを流れる用水に架かる小さな橋だ。傍らに、地元の顕彰会が建てた由緒を記した記念碑が、立派で驚く。

 名だたる軍師が自滅する話は人々の心情にアピールする。かつては、古文書に記録がないことから、勘助は実在したのか、足軽程度ではなかったか―との見方が強くあった。歴史愛好者の創作ではないかと言われてもきた。

 一変したのは1969(昭和44)年。北海道釧路市の市河家が所属する文書の中に、武田信玄が1557(弘治3)年に市河氏にあてた書状があり、「くわしくは、菅助(勘助)が口頭で説明する」という文言が明記されていたのだ。市河氏は志久見郷(現在の栄村と野沢温泉村)を本拠にした武士だ。

 その後も、2009年に群馬県安中市の民家から、武田信玄が勘助にあてた手紙2通が見つかっている。そのうちの1通には、戦いでの功績をたたえ、勘助に褒美を与える内容だ。軍師勘助は実在したのである。

 勘を働かせて成功を狙うのを「山勘」と言う。山本勘助から出た言葉だという。仕事や勝負事で使うが、乱用すれば、残念な結果を招くだろう。川中島の戦いから学ぶ人生訓の一つでもあるだろう。
(2019年6月22日掲載)


写真上=細い用水に架かる胴合橋
写真左=山本勘助像・典厩寺(長野市篠ノ井杵淵)所蔵
 
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