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225 長野空襲 ~兵士の遺体を見送った14歳

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 昭和天皇がラジオによる玉音放送を通じて終戦を国民に伝えた1945(昭和20)年8月15日の前々日の13日、米軍機が長野駅、国鉄長野機関区、長野飛行場などを襲撃し、47人が犠牲になったとされる。

この長野空襲の正確な記録・体験の掘り起こしに努めている「長野空襲を語り継ぐ会」が毎年、空襲のあった日に開く「語る集い」は今年で35回になる。

 体験者・証言者が激減している中、今回、国鉄長野機関区で空襲に遭った貴重な体験を発表するのが、山口勝久さん(88)=浅川西条=だ。

 山口さんは、国民学校高等科2年を修了後、長野工機部で働きだして間もない14歳だった。空襲当日は午前7時前、長野機関区の構内に入った途端に空襲を告げるサイレンが鳴りだし、急いで防空壕に入った。

 この時は長野飛行場方面の空襲で、山口さんは飛行場方面から上る煙を見て、「飛行機が狙い撃ちされて煙が上がったのだろう」と思った。

 機関区は、現在、ホテルメルパルク長野が立つ場所にあった。上から見ると半円状の形をした車庫には数十台の機関車が収容され、その手前には、東京方面から長野駅に到着した列車・貨車の向きを前後反対にするための「転車台」があった。


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 空襲は夕方までに市内各地で5波に及んだ。午後1時ごろの空襲で、機関区と、隣接する工機部、長野駅の一部が集中攻撃を受けた。「燃えている建物の消火に行け」と命じられ、山口さんがバケツを持って数人と行くと、手が付けられない状態。米軍機の音におびえ、隠れながら防空壕に戻った。

 敷地内にあった、軍事教練用の木製の戦車が「めちゃくちゃに」破壊された姿を目の当たりにした。

 空襲は午後4時過ぎまで続き、駅舎から工場、倉庫群まで火災に遭い、消火活動に追われた。空襲が収まったころ、「アスガラヤマ」と呼ばれていた場所からリヤカーで運ばれて来た血まみれの兵士の遺体をトラックに積み込む場面を目撃した。アスガラヤマでは兵士が米軍の攻撃と戦っていた。午前中、山口さんが避難していた防空壕に「工具を一式貸してほしい」と来た兵士だと思い出し、トラックが見えなくなるまで手を合わせて見送り、目頭が熱くなったと振り返った。

 その日、西長野の自宅に帰ると、母は「生きていてくれて良かった」と涙を流して喜んでくれた。

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 「市街地のほかの駅や線路周辺が危険だ」。住民に恐怖が広がったのは翌14日。善光寺の裏山や西山、村部へ避難する家族が目立ち、林の中に蚊よけの蚊帳をつって過ごす光景も見られたという。
(2019年7月27日掲載)

写真上=建設中の国鉄長野機関区の転車台(手前)と車庫(奥)
写真左=大正末期ころの長野駅東北側の地図(七瀬町誌より)

写真=山口勝久さん
 
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