
「追分」は街道の分岐点を意味し、全国に多くの「追分」がある。軽井沢町の追分宿は、宿場を西に出外れた所で中山(なかせん)道と北国街道が分かれる、交通の要衝にあった。
最寄りの信濃追分駅は、標高956メートル。しなの鉄道線で最も標高の高い所にある無人駅だ。木造の駅舎は、壁に塗った白いペンキが色あせ、懐かしさを感じさせる。
追分宿は駅から約1キロ西の、国道18号の裏通り。浅間神社の並びに、宿場町の歴史を伝える町営の博物館「追分宿郷土館」がある。展示によると、江戸時代中頃には旅籠(はたご)屋など約120軒が立ち並んでいた。現在とは逆に、軽井沢や中軽井沢(沓掛宿)よりにぎわっていた。

追分宿は、「追分節」発祥の地でもあった。峠越えを控える追分宿には、物資輸送のための馬と馬子も集まってきていた。彼らが歌った馬子唄は、宿場の飯盛り女たちが三味線の伴奏を付けて歌う座敷歌になり、街道を行く旅人を介して新潟、秋田、さらには北海道へと伝わっていった。
近くには堀辰雄文学記念館もある。小説家堀辰雄(1904~53年)は東京生まれだが、軽井沢を愛した。「美しい村」を刊行した34(昭和9)年から追分に滞在するようになり、44年に追分に転居。亡くなる2年前には住居を新築した。記念館の敷地内にはこの晩年の家が移築され、多くの遺品も展示している。
通りには民家や商店、飲食店があるが、建物がぎっしりと立ち並んでいるわけではない。パン店や古書店などはしゃれた店構えで、「リゾート地・軽井沢」を感じさせる。旧宿場町では珍しい、あか抜けた雰囲気だ。
その中心が「信濃追分文化磁場 油や」。元は脇本陣を務めた旅籠屋で、昭和の時代には道向かいに移転して「油屋旅館」となり、堀辰雄や立原道造らが執筆に使った。旅館が廃業した後、NPO法人が建物をリノベーションし、アートやクラフトを展示販売する施設に生まれ変わらせた。カフェや古書販売も行い、何時間も飽きずに過ごせそうだった。
宿場町の西方向の国道18号沿いに中山道と北国街道の分岐点「分(わか)去れ」がある。立っている常夜灯や道しるべは、江戸時代のままだそうだ。

近くにある「中山道69次資料館」は、庭が面白い。林の中にくねりながら開かれた人一人の幅の道が、京都三条大橋から江戸日本橋まで、中山道の全宿場と沿道の山や川の渡しなどの名所を、小さく再現している。中山道踏破を疑似体験できた。
(竹内大介)
(2019年9月14日号掲載)
写真上=追分宿の西の外れにある分去れ。左が中山道(国道18号)、右が北国街道
写真下=古い木造建築の信濃追分駅