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227 檀田の若月神社 ~境内に平安時代の庚申塔

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 長野市郊外の浅川・若槻地区は戦後、目覚ましく様変わりした地域の一つだろう。広大な水田・畑作地だった地帯がびっしりと家が建て込む住宅街へと変貌した。

 東西に貫く2車線道路「檀田(まゆみだ)通り」にはスーパーや大型店が並び、買い物にもとても便利。「檀田大通り」と誇らしげに呼ぶ地元住民もいる。

 檀田地籍にある「若月神社」は、通りを北側に入り、地区を流れる浅川とゴルフ練習場の間に位置する。周辺は昔、小さな村落だった。江戸時代の文政6(1823)年、「郷名を神社名にせよ」との領主の命令で若月神社とした次第だ。境内に、平安時代の年号が入った庚申塔があるが、その由来は分かっていない。

 地域のお年寄りは「大人も子どもも夢中になった春秋の祭りがすたれて、神楽や獅子舞の道具がほこりをかぶってさびしい限りだ」と言う。

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 「檀田」という地名は、ニシキギ科の落葉木「マユミ」に由来するという。秋の黄葉とピンクの実が愛らしい。緻密な材質で、枝がよくしなり、弓を作るのに用いられた。信濃は弓の大産地で、毎年数千張が朝廷や畿内の豪族に献納され、外敵を迎える大宰府や征夷の戦場に送られた。信濃産の弓は、品質の優れた一級品で、「真弓」の尊称で呼ばれ、「みすず刈る信濃の真弓わが引かば」と、万葉集にも歌われた。

 「マユミの生産が奨励され、専用の田畑が公に指定され、マユミを育てる田畑を檀田と呼ぶようになった」と郷土史家は解説する。

 檀田通り工事前の発掘調査で、1987(昭和62)年、若月神社の南側数百メートル、浅川の川端で、縄文時代から平安時代のムラの跡(浅川端遺跡)が発見された。住居や溝の跡、墓などが見つかり、古墳時代後期には多数の住居のある大きな集落が存在していたことが分かった。

 遺跡内の竪穴住居跡からは、馬形帯鉤(うまがたたいこう)が出土した。高さ6・7センチ、幅9・2センチ、重さ40グラム。

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 帯鉤は、中国や朝鮮半島で使われたベルトを留めるための金具(バックル)で、日本では古墳から見つかった例はあるが、住居跡ではないという。遺跡跡地にある案内掲示板には、「古代のこの地にすばらしい文化遺産を所有していた人がいたことを思い浮かべてみてください」と書かれている。

 桐原の牧にも近い。馬を飼育する渡来人の有力者が定住していたのかも。想像力を働かして推理するのも楽しい。
(2019年9月28日号掲載)

写真上=若月神社
写真下=浅川端遺跡の案内掲示板
 
足もと歴史散歩