
善光寺の西北、数百メートル離れた高台にある県立長野西高校。1896(明治29)年、長野県初の女子中等学校として創立され、市民から「にしこう」とか「お山の学校」と呼ばれてきた。
正門のロータリーに入ると10本近い赤松の古木の中で、柔和な表情をした創立者渡辺敏(はやし)(1847~1930年)の銅像が迎えてくれる。
渡辺は、二本松藩(現在の福島県二本松市)の生まれ。明治新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰戦争(1868~69年)に従軍し、新政府軍(官軍)に抵抗した生き残りだ。
上京して、苦学して東京師範学校を卒業し、信州で教員の道を歩み始めた。ヨーロッパの教育理念を実践し、最初の赴任地、仁科学校(現・大町市)では、バイオリンで唱歌を教えたり、近代登山の黎明(れいめい)期だった当時、白馬岳、立山登山を実施したりした。
長野町(現・長野市)の要請で、町立長野高等女学校(現・長野西高校)創設に尽力し、初代校長を務め、約20年間、現在の長野市域の学校整備と女子教育にらつ腕を振るった。
「妻になり母になるには独立精神と一方で身体鍛練が必須。登山の遭難や負傷を恐れるな」と唱えた渡辺は、学校行事で戸隠登山を始めた。難所の「蟻(あり)の塔渡(とわたり)」は、危険だとして親らの反対も多かったが敢行した。富士山登山も行った。わらやござを防寒・雨具にした生徒の写真が残る。
長野西高校学校案内にある「一壜(びん)百験」は、渡辺が科学教育を広めるため、特注フラスコを使ってさまざまな実験を披露したことを表している。実験は学校内だけでなく、善光寺参道でも参拝客に見せたという。
長野盲人学校(現・長野盲学校)創立を主導し、一方で信濃教育会副会長を務めた。
分厚い1冊本「渡辺敏全集」(信濃教育会編)には、いささか頑迷でわが道を押し通した渡辺の教育実践の事例が詳しく載っており、県下の小中高校に配布された。
「戦後、喧伝(けんでん)され、称賛された信州教育の基礎路線を敷いた偉人」と言う人も。一方で、最近の新任教員たちには、時代錯誤と感じるところがあるかもしれない。
長野西高校は、男女共学になり、国際教養科が設置された。善光寺を訪れた外国人観光客を英語でガイドする生徒らに、高台に立つ渡辺の銅像は目を細めて何を語るのだろうか。
(2019年10月26日掲載)
写真=渡辺敏像。1931(昭和6)年建立の銅像は戦争中に金属供出され、96年に再建された