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229 千曲川改修起工碑 ~大正7年から国が工事担当

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 このたびの台風19号は東日本の各地に甚大な被害をもたらした。長野市や周辺地域でも、千曲川の決壊、氾濫による洪水被害が人々の生活を苦しめている。千曲川は歴史的に何度も氾濫し、周辺地域に大きな被害をもたらし、祖先は治水対策に膨大なお金と労力を投じてきた。

 大正から昭和にかけて行われた千曲川改修工事の一大プロジェクトを今に伝える石碑が、善光寺東側の高台にある建御名方富命彦神別(たけみなかたとみのみことひこかみわけ)神社(通称水内大社、城山県社)境内にそそり立っているのをご存じだろうか。

 春のお花見シーズンにプレハブの花見小屋が並び立つことでおなじみの境内。高さ4メートル30センチ、幅2メートル10センチの「千曲川改修起工碑」は、さまざまな記念碑が林立する中でも、その巨大さが異彩を放っている。

 石碑上部の題字を揮ごうしたのは、明治から昭和前期に活躍したらつ腕政治家、後藤新平だ。

 碑文はこう語る。「千曲川は本州中部の巨流なり、長野県はその強半を占めている―。巨流から、多くの利益を得ているが、洪水になると田畑から人畜まで被害は甚大。流域関係者の悲願を積み上げ、県議会が予算を議決したところ、後藤内相(今日の総務大臣)が賛成して国家予算に組み入れ、工事は国が担当することになった―」。当時の内相は別格の権力者だった。

 1915(大正4)年、16年から具体化した工事は18年の暮れ、犀川との合流地点で起工式を行い、着工翌年の19年、この記念碑が建立された。完工より着工が重視された。

 傍らに立つ木製の解説板(1992年建立)によると、当初10年で完工予定の工事が、完成したのは23年後の昭和16(1941)年だった。軍事関連予算が優先され、千曲川改修は不要不急の工事にくくられたのだろう。

 河川の改修は一朝一夕にできるものではない。千曲川洪水の歴史では江戸時代の「戌(いぬ)の満水」(1742年夏)が有名だ。上流の佐久地方から下流の越後まで被害が広がった。台風直撃による豪雨で千曲本流に連なる中小河川まで氾濫し、古文書のデータから犠牲者は2800人近いと推測され、遺体は飯山まで流され収容された。松代城の殿様も船で避難したという。

 江戸時代に行われた洪水対策の遺跡が小布施町にある。千曲川に流れる松川沿いに福島正則が築いた「千両堤(つつみ)」だ。玉石を人力で積んだ形跡が残る。

 重機のない戦国時代、現代のような本格的堤防建設など、絵に描いた餅に等しい。

 水防遺跡では、居住地だけ土盛りしたり、堤防で囲む輪中(牛島)が有効だった。また、資力のある農家は、敷地の一部をかさ上げて建てた水屋(みずや)を避難のよりどころとした。

 築城や鉱山土木の天才である戦国武将の武田信玄は「霞堤(かすみてい)」で対処した。洪水は自然の摂理と割り切り、激流は耕地(遊水地)に導き入れ、なすがままにする。減水すれば復興が早いという逆転の発想だ。
(2019年11月23日掲載)

写真=千曲川改修起工碑。碑陰(裏)には政財界の著名人の名が並ぶ
 
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