
中野市南部と小布施町北部に「延徳田んぼ」と呼ばれる田園地帯が広がる。長野電鉄の車窓から北信五岳が見えるビューポイントだが、かつてここは「遠洞(えんどお)湖」という湖沼があったという伝承を知り、出かけてみた。
延徳田んぼは、三方を山や高台に囲まれ、千曲川とは立ケ花狭窄(きょうさく)部の手前で接している。そのため川の増水時には浸水の危険があり、水害との戦いの歴史だった。
現在は堤防や排水施設が改良され水害は減ったが、10月の台風19号で一部が浸水被害を受けた。
この地形の成り立ちは諸説ある。かつては千曲川の流路の一部だったが、夜間瀬川が現在の中野市街地を流れ、延徳側に土砂を運んだ。千曲川は西に移動し、湖沼が形成された。その後も土砂は堆積し続け、後に開拓した(延徳村誌)―などだ。
どの説にも共通しているのは、室町時代の延徳年間(1489~92年)に開拓が始まったことで、これが名前の由来になったという。

都住駅を降り、湖沼にまつわる場所を求めて桜沢方面へ。市町境の切り通しに「舟つなぎ石」の記念碑が置かれているらしいが、この時は見つけられなかった。
切り通しを抜け、桜沢地区へ。急坂に立派な石垣が築かれ、家々が立ち並ぶ。山へ向かって登っていくと視界が開けた。晴れていれば北信五岳が一望できるが、今回は延徳田んぼの地形をじっくりと確認した。
さらに北上し、延徳小学校がある大熊地区へ。同校の裏山にかつて大きな松があり、源頼朝が善光寺参詣でこの地を訪れた時に、遠洞湖に舟を浮かべて眺めたという伝承がある。
学校の横を登ると「飯森松」の看板を見つけた。山道へ入り、登ること約5分。飯森松と書かれた碑と小さな松があった。後で地元の人に聞いてみると、何十年も前に枯れてしまい、今は3代目という。かつては地域の自慢の松で、今でも人々が憧憬を抱いているそうだ。

線路沿いから離れ、更科地区の「高井舟着神社」へ。扇状地にこの場所だけ岩場が突き出し、上に神社が立っている。社殿の奥に「舟つなぎ石」があり、縄を通したとされる穴が見える。ここの海抜は延徳田んぼから20メートルも高い位置にあるので、にわかに湖沼の想像はつかないが、中野の旧市街地南端とほぼ同じ高さというのが気になった。
最後は、中野市役所前に移設された桜沢の「舟つなぎ石」を見て終了。今回は伝承に絞ったが、興味が深まる旅だった。
(森山広之)
(2019年12月7日掲載)

写真上=桜沢地区から見た延徳田んぼ。右奥に中野市街地が見える
写真中=紅葉の木々に囲まれた飯森松の碑
写真下=高井舟着神社の「舟つなぎ石」