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231 現成上人 ~慈善活動やめ 願ったことは~

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 善光寺信仰の歴史をひもとくと、庶民から高僧まで数限りない善男善女が登場して「念仏と極楽往生」を説く。

 善光寺信仰の逸話には詳しいと自負していたのだが、江戸時代後期に現成上人(げんじょうしょうにん)という高僧が江戸にいて、晩年は善光寺に移住し、最期を迎えたということを、歴史研究者氏家幹人さんの著書「これを読まずに『江戸』を語るな」で初めて知った。

 現成上人は本所原庭(現在の東京都墨田区)に庵を構え、病人や貧窮者の救護介護所を建てた。隅田川の水辺に流れ寄る死体や人骨を供養したのが活動の始まりだったという。

 「無徳庵」と名付けられた施設は男女別に分けられ、各自に箱膳が用意され、大椀、汁椀、塗り箸、布巾が支給された。食事は朝がひきわりがゆに、昼は飯汁、夜はみそ雑炊。上人を信仰する人たちからは煮しめ物や揚げ物、菓子などが日々届けられた。飢饉に備えてか、サツマイモの俵が積まれ、火災の時、病人を運ぶむしろも多数用意された。施設は評判を呼び、金持ち商人などの支援を得て、弟子も増え、かや葺き屋根が瓦葺きになるほどだった。 

 皇居の北の丸にある国立公文書館に勤める氏家さんは、肥前国平戸藩(長崎県)の老公松浦静山の記した随筆「甲子夜話(かっしやわ)」から現成上人の名に初めて接し、上人と同時代の戯作者の曲亭馬琴や為永春水、明治時代の文献にもあたり裏付けを重ねた―という。

 現代の介護施設並みの気配りを施していたのに、驚くことに、上人のもとを去っていく者も少なくなかった。「湯治のため温泉に行きたい」「サンマが食べたい」などと言って脱走する者。弟子や周囲の人たちとの対立、感情のもつれも生じ、誤解などから組織も破綻。病人や貧しい人たちのための施設は解体してしまう。

 上人は庵を捨て、江戸を去り、善光寺近辺に移住したあげく、善光寺地震のあった弘化4(1847)年の正月18日朝、善光寺の辺りで絶命したという。

 個人の人格を尊重した介護を重んじ、重症の患者の身体を洗い清める上人の姿に人々は涙を流したという。身体が動く者には生きがいづくりのため細工物の手仕事をさせた。そして朝な夕なに念仏を唱える―。厳しい封建体制の江戸時代に「一体本当の話なのか」と疑心がわいた。一方では介護施設破綻の顛末は「さもありなん」と、ふに落ちる。

 高い理想を掲げたものの頓挫した現成上人の最後の願いは、善光寺での極楽往生だった。こんなストーリーにほっとして納得する。

イラスト・近藤弓子
 
足もと歴史散歩