
善光寺北側の山腹を通る通称・展望道路。昭和の初め、眺望に優れたこの道路建設を推し進めたのが当時の長野市長、丸山弁三郎(1879~1957年)だ。
丸山は、現在の中野市の出身。長野県師範学校を卒業。今の長野商業高校で教え、同校の校長を経て、1922(大正11)年から12年間、第5代長野市長を務めた。
在任中の29(昭和4)年、米国で始まった世界大恐慌は、養蚕業が盛んだった信州経済にも大きな打撃を与え、ちまたに失業者があふれた。展望道路の建設・整備は、米国のニューディール政策を参考にした失業者対策で、結果的に延べ約6万人の失業者が救済されたという。
このほかにも、任期中に吉田、三輪、古牧、芹田の1町3村を合併。曲折して道幅の狭かった中央通り(善光寺参道)を拡幅・整備した。
その後、37(昭和12)年、衆議院議員選挙に立候補、当選。40(同15)年の衆院本会議で、斎藤隆夫議員が日中戦争(支那事変)に関していわゆる「反軍演説」をし、衆議院議員を除名された際に演説に賛意を示した骨のある政治家でもあった。
丸山の専門は数学や簿記だったが、漢詩と書道を生涯の趣味とした。

善光寺雲上殿の西側、大峰山の山頂直下の急カーブ続きの展望道路沿い、東大地震研究所の向かいに石碑が立ち並ぶ「歌が丘」がある。33(昭和8)年の展望道路開通を機に、郷土の教育・文化に貢献のあった人の碑を建てる計画が持ち上がり、36(同11)年に完成。相馬御風歌碑、毎田周一(宗教哲学者)頌徳碑など現在16基を数える。
メインは大きな岩にはめ込まれた「信濃の国」の大型歌碑。作詞者・浅井洌(1849~1938年)の原文を刻してある。
浅井は松本藩士出身であり、歌碑建設当時は、松本に隠棲していた。松本と長野が事あるごとに対立、競争し合った時代に、長野市に「信濃の国」歌碑を建設することには懸念もあり、関係者は静かに建設を進めたという。
展望道路が完成した翌34(同9)年春、歌碑の除幕式があり、80代半ばの浅井烈も足を運んだという。
「信濃の国」歌碑は、県庁舎玄関脇にあるのがおなじみだが、浅井洌の筆跡がぎっしり刻印されたものは珍しい。
歌が丘は、丸山が「ひとつ由緒ある名所にしたい」ともくろんだ丘で、文人市長の面目躍如となった。
明るく開けていた「歌が丘」の辺りも雑草や雑木が生い茂り、階段も崩れ、荒れている。隣接する小丸山公園も含め、参詣者や市民を引き付ける整備が必要だ。
(2020年2月22日掲載)
写真上=「信濃の国」歌碑
写真下=立ち並ぶ歌碑など。大峰城に至る歩道の起点だ