
1970(昭和45)年3月21日の寒い朝のことでした。その日、私は前日から一睡もしないで朝刊が来るのを待っていました。というのはその朝刊で私が東京大学文科Ⅲ類に合格したか否かが分かるからです。
私が生まれ育った須坂市は、全国的に有名な善光寺のある長野市とは、千曲川を境に隣接し、四方を見渡す限り山に囲まれ、晴れた日には北アルプスの連山をくっきりと見渡すことができる風光明媚な所です。
そんな山に囲まれた長野盆地では、春とはいえ、3月下旬はまだ残雪もあり肌寒い。そんな早朝に私は庭に出て「まだか、まだか」と新聞が来るのを待っていたのです。
何事においても結果発表を待つときの気持ちは複雑で、とにかく合格か不合格かのどちらか一方しかないのだけれども、待つ時間は実に嫌なものです。そんなことを考えている間にも、時は刻一刻と過ぎ去り、夜の暗闇もしだいに遠い彼方へと追いやられ、空が白んできました。ちょうどそのとき、パタパタパターッという足音がして新聞配達のおじさんが走って来るのが見えました。その瞬間、私はラグビーのダッシュよろしく飛び出しました。それはおそらく家族の誰よりも先に自分が知りたかったのと、もし落ちていることが自分より先に家族に知られたらかっこう悪いという複雑な心理が働いたためと思われます。
新聞を受け取りましたがすぐさま開いてみようとは思いませんでした。いや、見たくてしかたがないのですが「もし落ちていたら」という不安があって、恐ろしくて見ることができなかったのです。しかし、見なくては、といささか冷静さを取り戻して思い切ってパッと開いて見ました。さっきはあれほど恐ろしくて見ることができなかったのに、今度は目の方が勝手に活字を追ってしまう。「大学合格者」、「文Ⅰ」「文Ⅱ」「文Ⅲ」...と勝手に目が動いてしまうのです。
「あるかな俺の名前は」とドキドキしながらもさらに目は動きます。そのときふいに「富沢一誠」という活字が目に飛び込んで来ました。
「あった。あった、あった、俺の名前が」このときほどたった4文字の名前「富沢一誠」が大きく見えたことはありません。
いつも見なれている名前を見て、はじめて「俺は受かったんだ」という実感が湧き、私は思わず跳びはねてしまったほどです。いてもたってもいられなくなり、おやじ、おふくろの所へすっ飛んで行きました。このとき、あまりにも興奮しすぎていたので部屋のドアを開けることも忘れて「父ちゃん、母ちゃん、受かったで」と叫んでいました。
おやじとおふくろは何事かと思い、ドアを開け目をパチクリしています。
再び私が「合格したぜ、受かったんだよ、東大に」と言うと、今度はおやじが「そうか」と、たった一言いい、いかにもうれしそうな顔をしました。おふくろも「良かった、良かった。本当になあ」と言って、顔をクシャクシャにして喜んでいました。
喜んでいるおやじとおふくろの顔を見て、私もしみじみとうれしさと喜びを感じとりました。高校の3年間、夢にまで見た東京大学が今、この手につかみ取れたのだ、と思うと感慨深いものがありました。
(2020年3月21日掲載)
写真=晴れて東大生になった私